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主イエス・キリストの中心性と至高性

T・オースティン-スパークス

Ⅱ.個々の信者に対するキリストの中心性と至高性(続き)

聖書朗読 ヘブル人への手紙一章一~十四節

さて、「あなたたちの内におられるキリスト」の第二の面に進んで、有名なガラテヤ人への手紙二章二〇節に向かうことにします。「私はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きておられます。そして私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きます」。

Ⅱ.内なるいのちであるキリスト

第一は心の中に与えられるキリストの啓示であり、第二は内なるキリストのいのちです。キリストが内に生きておられるのはたんなる事実ではありません。これを悟ることが重要です。キリストは私たちの内側におられて、私たちの内に生きておられるだけではありません。これにはそれ以上の意味があります。すなわち、キリストは信者のいのちである、ということです。内なるキリストは信者のいのちそのものです。彼は私たちのいのちとして中心でなければならず、至高でなければなりません。彼が中心であり至高である程度に応じて、彼は私たちのいのちとなられます。それ以上でも、それ以下でもありません。しかし、どのような方法で内なるキリストが信者のいのちになるのか、私たちは理解したいと思います。ガラテヤ人への手紙は、これを理解する助けになります。私は専門的意味で、あまり教理的、神学的でありたいとは思いません。しかし私は、主の民は恵みの偉大な教理についてはっきりしているべきだと感じます。ですから、私たちの前にあるこの御言葉の背景をしばし考えたいと思います。

私たちは、私たちのいのちであるキリストについてしばしば語り、「キリストは私たちのいのちそのものです」といったことをしばしば言います。私たちは、厳密にはこれと同じ範疇には属さないけれども、これと関係している次のような他の聖書の箇所を用います。「私たちのいのちであるキリストが現される時、あなたたちも彼と共に栄光の内に現されます」。キリストは私たちのいのちであるという原則は同じですが、ここにはその背景があります。キリストは私たちにとって、私たちがいのちと称する活力である、ということだけではありません。もちろん、キリストは活力であり、いのちです。聖霊は私たちの内でいのちの霊です。しかしここでは、それは文脈から説明されており、さらに深い意味を与えられているのです。その前後の言葉を見るなら、この使徒の文章が一つの変化を示していることがわかるでしょう。ご存じのように、この書はガラテヤの信者たちが陥っていた律法主義を取り扱っています。彼らは律法主義に打ち破られ、攻撃を受けていました。彼らは律法主義に欺かれていました。三章がどう始まっているのかに注意してください。「ああ、愚かなガラテヤ人、誰があなたたちを欺いたのですか?」。文字どおりには、「誰があなたたちに魔法をかけたのですか?」です。彼らは魔法の下に陥りました。それは偽りの律法主義の呪文でした。さて、パウロがこの二〇節で述べていることは一つの変化を示しています。以前、パウロは律法にすがって生きていました。ユダヤ人としての彼の立場は、律法の下にある人は律法によって生きなければならない、というものでした。律法は、「あなたは……しなければならない」「あなたは……してはならない」でした。「要求事項」が満たされ、「禁止事項」が遵守・回避されたとき、人のいのちは神によって維持されました。生きながらえて地上の日々を長くしたければ、律法を守らなければなりません。そこで、人は律法、戒めの律法にすがることによって生きました。律法を厳格に守ったタルソのサウロのような人からもわかるように、それはひどい重荷であり、常に罪定めと死を意味しました。それは絶えず頭上に吊されているダモクレスの剣のようでした。髪の毛一筋ほどでも逸れるなら、あなたは死に、罪定めと裁きと死の下に陥ります。清めや神との正しい関係に関する規定を守っても、それは一瞬たりとも良心には触れず、心にも触れませんでした。それは一時の間に合わせにすぎませんでした。それはまったく外側のものであり、「何かが足りない、何かが欠けている」という内側の感覚が常にありました。しかし、サウロは律法にすがることによって生き、律法にすがることによっていのちを保ちました。律法にはあらゆる負担、労苦、威嚇、裁き、罪定めが伴っており、常に眼前に死の影がちらついていたにもかかわらずです。これが彼の過去の生活でした。

さて、パウロがローマ人への手紙の最初の数章でまったく明らかにしているように、神の神聖な律法のあらゆる点や要求に関して、自分の力で完全に神を満足させられた人は一人もいません。すべての人が律法を破り、失敗しました。いかなる人の内にも、義の根は見つかりませんでした。神は決して、人自身の中にないたんなる外側の義や、実行上の義ではない一種の理論的な義に満足されませんでした。自分自身の内に義を持つ人は一人も見つかりませんでした。形式的な義を持っていたパウロの自分自身に関する言明の中に、人類全体が含まれます。「なぜなら私は、私の中に、すなわち私の肉の中に、善なるものが宿っていないことを知っているからです」。

キリストの内にある、義によるいのち

今、律法を満たせる唯一の御方であるキリストが、ご自身に元々備わっている義により、律法を完全に満たされました。キリストは外面的、形式的、理論的に神を満足させたのではなく、元々罪のない義なる者として神を満足させたのです。キリストはご自身のパースンにおいて律法を成就し、律法を道から取り除いてしまわれました。律法は取り除かれています。神は律法が成就されることを望んでおられただけであり、その後、律法を取り除くことができます。キリストは律法を成就し、それを道から取り除いて、新しい時代を開始されました。律法の時代ではなく、恵みの時代です。キリストは新しい統治をもたらされました。その統治では、「あなたは……しなければならない」「あなたは……してはならない」が支配するのではありませんし、体系化された律法主義が支配するのでもありません。恵みが支配します。新しい時代はキリストを信じる信仰の時代です。キリストは人に対する神の要求をすべて満たし、すべての人のために神を満足させてくださいました。このキリストを信じる信仰の時代です。すべての信者はキリストの中に集約されており、キリストによって代表されています。また、神はキリストの中にあるそのような者たちに満足しておられます。これを信じる信仰の時代です。キリストは神が人に要求しておられた義を生み出してくださいました。神は満足しておられます。キリストは人として、人のために義を生み出してくださいました。神は完全に満足し、満ち足りておられます。

今、あらゆる義の問題に関して御父を完全に満足させているこのキリストが信者の内におられます。ですから、キリストの中にある信者は彼にあってあらゆる義を有しており、神は満足しておられるのです。信者自身は前よりも義しいわけではありません。義なる方が内側におられるということです。神は私たちをご覧になるのではなく、私たちの内におられる御子をご覧になります。今、キリストは内に生きておられます。パウロは次のようなことを述べています、「今、私が生きているのは、律法にすがることによってではなく、キリストにすがることによってです。私がキリストにすがるのは信仰によってです」「今、肉体の中で生きているそのいのちを、神の御子を信じる信仰によって生きます」「私は信仰によって彼にすがり、そして生きます」。もはや罪定めはなく、それゆえ死もありません。ここに義があり、義があるところに罪定めはないからです。キリストの中に罪はありません。キリストの中には罪がないので、死と裁きには何の力もありませんし、何の関係もありません。キリストはここにおられます。キリストは不朽不滅のいのちの力によって生きている御方です。「私は信仰によって彼にすがることにより生きます」。どうやってでしょう?訴える者が来て私を戸口で訴え、罪定めと死の下にもたらそうとする時、「キリストは私の義です」と言うことによってです。訴える者が火矢で攻撃し、「あなたは父を怒らせています」と言う時(故意に罪にふけったり、わざと御父を怒らせるようなことはしていないのに、敵が「主の不興を買っている」という感覚を私に与えて、私を死の中に落ち込ませようとする時)、私は言います、「私のために御父を満足させてくださるキリストが私の内におられます。御父は彼をとても喜んでおられます。キリストは私の内におられます」。信仰によってキリストにすがり、キリストにつながるなら、私は死ぬかわりに生き、罪定めの下に陥るかわりに勝利します。この意味で、内なるキリストはいのちであり、このいのちを私たちは生きるのです。私たちが勝利の生活を送るのは、罪に対して戦うことによってではありませんし、自分自身に基づいて訴える者に答えようとすることによってでもありません。キリストを示し、信仰によって内なるキリストにすがることによってです。キリストは私たち自身の心の内側で神の満足です。これ以上あなたは何を望むのでしょう?信仰は神の満足であるキリストに絶えずすがります。「私はキリストと共に十字架につけられました」――それではどうして私を捜すのでしょう?「もはや私が生きているのではなく」――それではどうして私を試み、訴えるのでしょう?「死んだ人は罪から解放されています」「しかし、キリストが私の内に生きておられます」。キリストに罪を科すこと、罪をキリストの責任にすることがあなたにできるなら、私には何の希望もありません。しかし、御父が私に要求されるのはただキリストだけです。そして、キリストが私にとって御父に対していかなる御方なのか、これを信じる信仰の鎖を私は絶えず堅く保ちます。そうしている限り、私は生きます。死なずに生きます。キリストは私のいのちです。この意味で、キリストは私のいのちになります。これは、キリストを私たちを生かし続ける内なる活力と見なす以上のことであることがわかるでしょう。こうしたことにはすべて、偉大な背景があります。キリストのパースンが御父に対して持つ意味と、キリストが御父を満足させるために十字架上で行われた働きを、これはすべて集約しています。そして、それは私たちに与えられて、私たちの内なる分となります。次に、信仰がこれに結びつき、これを握り続け、私たちは生きます。「そして私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、私のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きます」。

これは膨大な神の御言葉を簡潔にまとめたものですが、熟慮すべきことだと感じます。これは主イエスを私たちのいのちとして中心性と至高性の地位に戻すことを含みます。彼がそのような地位にある時だけ、私たちは生きます。私たちはキリストによって生きます。この意味で、キリストは私たちのいのちそのものです。ああ!訴える者にキリストをもって答えなさい。

「義の胸当て」という句は、この真理を述べる隠喩的方法、例証的方法にほかなりません。義の胸当てはキリストです。キリストは義なる御方であり、私たちに至る義とされました。良かれ悪しかれ、私たち自身で敵に当たろうとしても役に立ちません。毎回キリストをもって敵に当たり、キリストをもって敵に答えなければなりません。もし御父が高い要求をされるなら、御父ご自身が御子の内に必要なものを備えてくださっています。そして、御父は私たちに仰せられます、「わたしがあなたたちに求めているのは、両手をわたしの御子で満たすことだけです。両手を御子の完全さで満たしなさい。これがわたしを満足させるのです」。キリストは信者のいのちとして、信者の内で中心であり至高です。私はあなたたちに主イエスをさらに理解させましょう。これらの言葉の強調点は、神の御思いの中で彼がいかなる御方なのかということです。これをたんなる教理としてではなく、生き生きと把握する時、これを心の中で把握する時、私たちは勝利の何たるかを知り、勝利の生活を知り、満ち満ちた豊かさの何たるかを知るでしょう。愛する人たち、私は確信していますが、主イエスご自身で満たされれば満たされるほど、私たちはますます勝ち誇る、勝利の、打ち勝つ神の子供となります。他の何ものも、キリストに置き換わることはできません。

Ⅲ.内に形造られるキリスト

さて、この内住のキリスト、栄光の望みの第三の面に進みます。ガラテヤ人への手紙四章十九節「私の小さな子供たちよ、キリストがあなたたちの内に形造られるまで、私は再び産みの苦しみをします」「キリストがあなたたちの内に形造られるまで」。

第一に、私たちは内に啓示されるキリストを持ちます。第二は内なるいのちのキリスト、第三は内に形造られるキリストです。さて、ここでも区別が必要です。似ている節、あるいは似ているように見える節が、ローマ人への手紙第八章にあります。それはこれとよく似た言葉を含んでいます。しかしこの二つもまた、同じことを示してはいるものの、同じ性質のものではありません。「神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです」。ここでは、信者が神の御子のかたちに同形化されつつあります。ガラテヤ人への手紙では、内に形造られつつあるのはキリストです。類似点はありますが、相違点もあります。ここではガラテヤ人への手紙の御言葉に専念して、その固有の意義と価値を見ることにします。

ガラテヤ人への手紙全体を再び取り上げることにしましょう。その主題を念頭に置きつつ、使徒が手紙を書いた動機が何か見てください。動機はあやまちを正すことです。あやまちに陥ること、魔法使いの呪文の下で魔法にかかることは、霊的未熟さのためです。これらの信者たちは、主の中で前進していなければならなかったほどには前進していませんでした。そして、彼らは成熟するのが遅れたため、当時起きていたこの問題の餌食になりました。今、使徒はあやまちを正すために手紙を書き、問題の根幹、該当箇所を指さして、「これはみな、あなたたちの内のキリストがはっきりしていないためです」という主旨のことを述べます。この隠喩を綿密にたどってください。そうすれば、彼が何を言っているのかわかるでしょう。十九節の強調点は、「形造られる」という言葉です。「キリストがあなたたちの内に形造られるまで」。これはとても強い言葉です。彼が言っているのはこういうことです。「たしかに、あなたたちが信者であり、神の子供である以上、キリストはあなたたちの内におられます。しかし、それははっきりしないキリスト、形造られていないキリスト、形が未発達のキリストです。彼はそこにおられますが、まだあなたたちの内で明確になっておらず、その形は未発達です。そのせいで、弱さや誤導されやすさといった、このあらゆる問題があるのです。あなたたちが持っているキリストは、まだ形造られていないキリストです」。これはローマ人への手紙八章二九節とは異なることがわかるでしょう。ローマ人への手紙八章二九節は、神の御子キリストの究極的なかたちに至る、私たちの継続的成長を示しています。それが現在進行していることです。私たちは、懲らしめ、苦難、艱難、苦痛、訓練、主が私たちに臨むことを許された事柄によって、同形化されつつあります。私たちはキリストのかたちに同形化されつつあります。これが毎日起きていることです。しかし、これはガラテヤ人への手紙に記されていることではなく、何か別のことです。これは、私たちの心の中でキリストが明確になりつつあることを暗示しています。ガラテヤには混乱、あいまいさがありました。なぜなら、「キリストは信じる者にとって律法の終わりである」こと、キリストは旧経綸と新経綸、旧秩序と新秩序の境界を実際に画していること、キリストは律法を成就して道から取り除いてしまわれたことを、彼らははっきりと見ていなかったからです。彼らはキリストのはっきりとした輪郭を心の中で把握していませんでした。彼らはキリストのパースンと働きの意味に関するこうした特徴をはっきりと把握していなかったので、舞い込んで来たあらゆる問題の餌食になったのです。今、このような主の民が大勢います。彼らはあらゆる種類の事柄の餌食になっています。なぜなら、彼らは内なるキリストの明確な意味を認識していないからです。

キリストを明確に理解する必要性

どうして主の民のこんなにも多くの人々は、訴える者によって打ち負かされ、悩まされ、苦しめられているのでしょう?訴える者は彼らの目を常に内側に、自己分析や自己内省に向かわせて、始終こうしたことに従事させています。彼らは堅く自己に縛られているので、神に対しても他の人々に対しても役に立ちません。どうしてでしょう?それは彼らがキリストの意義を明確に認識していないためであり、キリストが自分たちのために神のすべての要求に答えてくださることを明確に認識していないためであり、これを信仰によって握っていないためです。これが自分自身からの解放の道です。これが自己からキリストへの解放です。しかし、彼らは依然としてあいまいな方法で神を満足させようとしています。それは恐ろしい苦闘です。彼らはキリストの明確な形を見たことがありません。キリストは彼らの内に形造られていません。彼は未形成の、ぼんやりした内住者です。これは説明が難しいのですが、私が何を言わんとしているのか、おそらくおわかりでしょう。心の中に住んでおられるキリストの明確な意義を把握するやいなや、私たちは安定した場所、堅固な場所、律法主義者たちがやって来て私たちの足下をすくうことのできない場所に達します。これが、反キリストについて、そして「私はこれが正しいのかどうか、本当なのかどうかわかりません。とても正しそうに見えるのですが」と言っていた主の民について書いた時、ヨハネが言わんとしたことです。「しかし、彼から受けた油塗りがあなたたちの中に住んでいるので、あなたたちはだれにも教えてもらう必要はありません」。それが正しいのか間違っているのか、あなたは油塗りによって内側で知ります。あなたはそれを言葉にすることはできませんし、事を分析して「あれやこれは間違っている」と常に言えるわけでもありません。あなたはそれを整然と述べることはできませんが、「それには警戒すべき何かがある」という証しを自分の心の中に持ちます。私たちの疑いや偏見と内なる証しとの間には大きな違いがあります。自分の思いを何かに投影しようとしてはいけません。「自分を安全に保つため、懐疑的な姿勢を取って、何事も問いたださなければならない」と考えてはいけません。「安全のため、公平であることはできない」と考えてはいけません。御霊にあって歩んでいるなら、落ち着いて心を開くことができ、恐れずにいることができます。あなたの中の油塗りがあなたを教えるので、あなたは常に識別することができます。あなたはそれを定義づけられないかもしれませんが、「私の心の中に何かもやもやしたものがあります。私にはわかります」と言えるでしょう。「その油塗りがあなたたちを教えます」という言葉は、主の民にとって定かではなかった反キリストに関して語られました。この油塗りは内に形造られるキリストです。あなたは明瞭なはっきりした所に来ます。キリストの形がくっきりと規定され、その輪郭がはっきりします。感覚が行使され、キリスト的機能が発達させられます。それは未形成なものではなく、何かはっきりとしたもの、内に形造られたキリストです。パウロは言います、「あなたたち、私の兄弟たちのことで、私は苦しんでおり、産みの苦しみをしています。あなたたちの状態のゆえに、私は産みの苦しみをしています。それは、キリストがあなたたちの心の中にはっきりと形成される所、彼が形を取って未形成のキリストではなくなる所に、あなたたちが至ることができるためです」。これがガラテヤ人への手紙四章十九節の意味です。

Ⅳ.内に住み着く(ホームを造る)キリスト

次に四番目です。エペソ人への手紙三章十七節「キリストが信仰を通して、あなたたちの心の中に住んでくださいますように。それはあなたたちが愛の中に根ざし、土台づけられて、すべての聖徒たちと共に(中略)理解する力を持つためです」「キリストが信仰を通して、あなたたちの心の中に住んでくださいますように」。さて、これは他のなによりも進んでいます。あなたはそれに気づかないかもしれませんが、これは前進です。これは、「キリストがあなたたちの心の中に住居を構えてくださいますように」と言っているのではありません。また、「キリストがあなたたちの心の中に来てくださいますように」「キリストがあなたたちの心の中に宿泊してくださいますように」と言っているのでもありません。これは、「キリストがあなたたちの心の中に住んでくださいますように」と言っているのです。そのギリシャ語は、心の中に「ホームを造ること」あるいは「住み着くこと」を意味します。「キリストがあなたたちの心の中にホームを造ってくださいますように」。これは宿泊する以上のことであり、中に入って来てそこに居る以上のことです。すべての家がホームとは限りません。

あなたたちの中には、「ベタニヤ」に関する私たちのメッセージを思い出す人もいるでしょう。ベタニヤに関する黙想の冒頭で、私たちはベタニヤが対照的だったことを示しました。万物を創造した方がご自身のものの所に来られた時、ご自身のものである人たちは彼を受け入れませんでした。そこで彼は、この地上におけるご自身の居場所について仰せられました、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」。これが彼の居場所でした。しかし、彼はベタニヤに行かれました。何度も行かれました――最大の試練を目前にして、状況が終局に向かってますます彼の上に重圧を加えていた時、彼はいつもベタニヤに退かれました。この地上で彼が唯一持っておられるように見えるホームは、ベタニヤでした。それは、彼がベタニヤに心の満足を見いだしておられたからです。そこには「耳を傾け続ける」人がいました。前に指摘したように、マリヤが耳を傾けたことの文字どおりの訳は、「彼女は彼の言葉に耳を傾け続けた」です。彼はご自身の中にあるものを注ぎ込める人、それを理解して応答してくれる人を求めておられました。そして、彼はその人をベタニヤに見いだされたのです。ベタニヤで彼の心は満足しました。なぜなら、彼の話に耳を傾け、それに応答し、「彼を迎えることはあらゆる特権の中でも最大の特権である」ということを彼に感じさせる人が、そこにいたからです。あまりにも多くの時、私たちは正常になる前のマルタのようです。(神に感謝します、彼女は正常になりました。ベタニヤの最後の光景では、マルタは依然として仕えていますが、今や状況は正常です。外側の活動は内側の霊的活動を圧迫していません。状況は正されました。)主は耳を傾けてもらう機会を望んでおられるだけなのに、正される前のマルタのように、私たちは主のために多くのことを行っています。主はしばしば私たちに言われるでしょう、「あなたがわたしのために忙しくしようとしていること、あなたがそれをすべてわたしのためにしようとしていること、あなたの動機が正しいことを、わたしは知っています。わたしはそれをみなとても感謝しています。しかし、ああ、あなたにいくつかのことを話す機会をわたしに与えてほしいのです。ああ、あなたの心に語る機会、あなたの知らないことをあなたに示す機会を、わたしに与えてほしいのです。そうするなら、大きな変化があるでしょう」。これが、私たちが時々脇に呼ばれる理由です。彼は「たくさんの料理」という熱狂的活動から私たちを連れ出して、彼に耳を傾ける所に私たちを連れて行かれます。しかし、もし私たちが彼に機会を与えるなら、それは彼がそうせざるをえない場合よりも、どれほどよいことでしょう。マリヤが誤解されたように、私たちは一見何もしていないかのように誤解される危険を犯さなければなりません。しばしば私たちは、「怠けているのは主から少々遠ざかっているせいだ」と人々から思われるのを恐れます。まあいいでしょう、主はご存じです。しかし気をつけてください、彼は来て、めぼしいところに彼のホームを造られます。これはキリストを宿泊者として持つ以上のことです。(このような言い方を許してください。)それは、心の中でくつろいで、そこにホームを造られるキリストです。これには適用が必要です。ですから、これを自分に適用してくださるよう主に求めてください。あなたたち、忙しい働き人たちよ、主の御心によると、あなたたちのどんな働きも、主があなたたちの心の中にさらに豊かな事柄を語り込むために求めておられる機会に、取って代わることはできません。もしあなたが主に語る時間を与えておらず、また主が新たな啓示に対する応答を得ておられないなら、あなたの活動には生命力が伴わないでしょう。

Ⅴ.信者の内で栄光を受けるキリスト

さて、最後にテサロニケ人への第二の手紙一章十節です。「彼が来られる時、彼は聖徒たちの内で栄光を受け、信じるすべての者の内であがめられます」「信じるすべての者の内で驚嘆されます」(アメリカ改訂訳)。これは内なるキリストの究極的完成です。これは素晴らしい御言葉であり、素晴らしいことを述べています。そう思わないでしょうか?そうです、私たちは彼が栄光の内に来られるのを見ることを期待しており、栄光を受けたキリストを見ることを期待しています。しかしその間、彼はある働きを行っておられます。その働きの結果、彼が現れる時、彼の栄光が聖徒たちの内にあるでしょう。これは栄光の内に来られる客観的キリストであるだけでなく、栄光の内に現される主観的キリストでもあります。「もし彼と共に苦しむなら、彼と共に栄光を受けます」。私たちが彼の栄光を見ることができるように、と彼は祈られました。そして、彼は聖徒たちの内で栄光を受け、信じる者の内で驚嘆されるのです。

ある日、山の斜面を登っていたのは――この世の観点では――パレスチナのただの田舎者でした。彼には何か際立った点、印象的な点があったかもしれませんが、彼はほとんど他の人々のようでした。彼が山の頂に達すると、突然、彼は天の栄光で燃え輝き、その衣は白く輝きました。彼は栄化されて、突然、ただの人――世はそう言うでしょう――から神の栄光に変えられたのです。突然でした。彼はそこにいた人たちを驚嘆させたので、彼らは話し始めましたが、自分が何を言っているのかわかりませんでした。「彼らはまったく地に足がついていなかった」と言えるでしょう。さて愛する人たち、このキリストが私たちの内におられます。私たちは人々の間で何の変哲もない民です。私たちには特に際立った点、傑出している点、優れている点は何もありません。しかし、変貌の山で起きたことが私たちにも起きる瞬間が来つつあります。私たちの内におられるキリストは、私たちを通して栄光の内に輝き出るでしょう。そして、変貌の山にいた人々が彼に驚嘆したように、彼は信じるすべての者の内で驚嘆されるでしょう。これが、「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」の目標です。この栄光の望みは、あなたたちの内におられるキリストです。言い換えると、中心であり至高であるキリストです。最初から最後まで、信者の生活はすべてこれにかかっています。

私たちはこの五つの段階すべてに戻って、各段階が何を要求するのかを見なければなりません。これをあなた自身でやってください。信者の内に啓示されるキリストは、信者を虜にされた器にすることがわかります。神の御子が自分の内に啓示された日、タルソのサウロは囚人にされました。その日から、彼は虜にされた人でした。彼は自分を「イエス・キリストの囚人」と呼びました。あなたも私も虜にされなければなりません。

「あなたたちの内におられるキリスト」が要求するもの

私たちのいのちとして内に住んでおられるキリストは、私たちを十字架につけられた器にします。「私は十字架につけられました」――虜にされ、十字架につけられました。内に形造られるキリストは、私たちを主と共に前進する器にします。ガラテヤ人たちが止まった所で止まるのではなく、進み続けます。心の内にホームを造るキリストは、「愛の中に根ざし、土台づけられること」と関係しており、それに続いて「すべての聖徒と共に」という句が続きます。キリストのからだの交わり、互いに愛し合う相互的な愛は、「ベタニヤ」の原則であり、キリストが住み着く結果になります。このように、あなたが究極的完成に至るまで、各段階は独自の責任と要求を示します。各段階の背景が、その要求がいかなるものかを示しています。これをあなたは見いだすでしょう。最後にテサロニケ人への手紙は、彼らの苦難について、主のための喜ばしい苦難について述べています。彼らは大いに苦しんでいました。それは、彼らが偶像から転じて生ける神に仕え、栄光からの御子を待っていたからです。彼らは苦しみましたが、喜んで苦しみました。栄光の究極的完成は、苦難における忠実さと関係しています。各段階には要求があることがわかるでしょう。あなたはそれをもっと綿密に見ることができます。

主は、御旨に応じるものを私たちの内に見いだして、御心の秘密の実現を可能ならしめてくださいます。それは、「あなたたちの内におられるキリスト」、中心であり、至高である、「栄光の望み」です。

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。