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私たちの戦い

T・オースティン-スパークス

第二章 二つの主な目的

「なぜなら、私たちは肉の中で歩いてはいても、肉にしたがって戦っているのではないからです(なぜなら、私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前に力があって、要塞をも破壊し)神の知識に逆らい立っている想像や、あらゆる高ぶりを破壊し、あらゆる思想をとりこにして、キリストに従順にならせます。」(二コリント一〇・三~五)

さて、戦いにおける次の重要な点――二つの主な目的:神の二つの主な目的と敵の二つの主な目的――に移ることにします。この一大軍事作戦には二つの面があります。一方は主であり、他方は副です。一方は最終的な究極的問題であり、他方はそれを達成するための手段・道具です。私たちはこの両方について考えますが、主に二番目について考えます。

まず第一に、神の究極的目的――したがってサタンの究極的目的――の第一の面は、「御座」という言葉が意味するところによってまとめられます。御座の権利・要求・目的、その影響の及ぶ領域・範囲、それと関係している誉れ、それが意味する統治、その上に御座が据えられている人々の繁栄と福祉、これらすべてが御座の意味を構成します。これが、究極的かつ最終的に、神の目的です。これらはみな、この一大軍事作戦における神の関心・活動・懸案の諸々の面にほかなりません。御座が、そのあらゆる意味と共に、この凄まじい戦いと関係しています。

ですから、敵の目的を見るのは容易です。それはいま述べたことの反対もしくは逆です。敵の狙いはこの御座の権利・要求・権益を否定することです。この御座の影響を抑え、可能なら完全に除去することです。その下にある人々から彼らの繁栄と福祉を奪うことです。こうしたあらゆることに敵は取り組んでいます。敵の究極的目的は、こうしたあらゆる方針にしたがって、自分自身ですべて――御座そのものですら――を支配することです。

これらのことを述べるにあたって、私は、もちろん、聖書に従っており、歴史に従っています。私たちは何に巻き込まれているのか、何に立ち向かっているのか、私たちは理解しなければなりません。

御座の道具である教会

この究極的目的の主要な面について短く述べたので、いわゆる二次的な面に移ることにします。しかし、それが二次的なのはただ、それが主要な面に依存しているという点においてのみです。これ――究極的目的を達成するための手段――は唯一の道具であり、その中に御座のこれらすべての特徴や要素が与えられていますし、それにそれらが委任・委託されています。御座の権利・要求・権益を否定するために、その上に不名誉や非難を着せるために、その影響が及ぶ領域を削減・排除するために、その臣民から彼らの繁栄と福祉を奪うために、これらすべてのことを行うために、敵は戦場の全軍勢――御座が働くための媒体・手段、御座を有効化する道具――を滅ぼすか、あるいは行動不能にしなければなりません。その媒体とは教会です。教会に御座のこれらすべての権益が委ねられています。教会の中にそれらが与えられています。

しかし、「教会」という言葉を客観的に捉えないようにしましょう。それを直ちに私たち自身にあてはめて、すべての言葉を個人的に適用しましょう。この問題では、あまりにも主観的になりすぎること、あまりにも自己にかかりっきりになったり内省的になったりすることを恐れる必要はありません。「教会(the Church)」に関する私たちの観念はあやふやだったり神秘的だったりしてはなりません。二人または三人が御名の中に集められている所にはどこでも、たとえその表れは微かだったとしても、そこに実際に教会があるのです。そして、すべてはそこから始まるのです。御座に関するこれらの途方もない事柄も同じです。なぜなら、神と敵の最高の究極的目的は、教会の一部である私たちを焦点としているからです。

被造物の呻きは教会と関係している

あらゆる問題は教会を中心としている、と言っても構わないという気がします。預言者たちのように――彼らの一人は「イスラエルを煩わす者」(一列一八・一七)と呼ばれました――教会も「煩わす者」です。イスラエルを煩わせるだけでなく、すべての諸国民とサタンの王国も煩わせます。今日も、イスラエル排斥へと至ったエジプトの凄まじい動乱に相当するものがたくさんあります。これが今日諸国民の間で起きている多くのことの理由です。諸国民の動乱――何のためでしょう?パウロは「全被造物は呻き苦しんでいます」と述べています――なぜでしょう?全被造物は「神の子らの出現」(ローマ八・二二、一九)を待っているのです。神の究極的御旨の対象、諸国民のこれらの動乱の対象は、神の子らの誕生・出現・促進です。こう述べるのはあまりにも大袈裟に思われるかもしれません。たしかに、もしそう述べる聖書的根拠がなければ、そう述べるのはあまりにも大袈裟だったでしょう。しかし、エジプトにおけるこれらの動乱は、彼らのただ中にいた脱出するべき民のためでした――その王国の背後にいた勢力には彼らを出て行かせる気はありませんでした!エジプトの地の実際の支配者だった悪霊どもの支配層は、その民を出て行かせたくありませんでした。なぜなら、イスラエルの解放はエジプトや地上の他の諸国民に対する彼らの支配権に対する考えうる最大の脅威となるであろうことを、彼らは知っていたからです。

数世紀後、イスラエルが再び捕囚になった時、バビロンで大混乱がありました。預言者を通して主は言われました、「私は人をバビロンに遣わし、彼らの貴人たちをすべて打ち倒す」(イザ四三・一四、欄外)――何のためでしょう?その人々を脱出させるためです!バビロンの動乱!今まさに、諸国民の間に多くの動乱があります。この騒ぎは大部分教会のためであると私は信じています。ひとたび教会が解放されて脱出するとき、分裂や裁きなどがある一方で、サタンは一息つくでしょう。しかし、これが国や国際間の大混乱や騒動に関する正しい解釈であってもなくても――私は正しい解釈だと思っています――何はともあれ、サタンの王国にとってこれはそうであることに疑いはありません。この問題、騒乱、大混乱の原因は、戦場にいるこの別の軍勢です。それは煩わせる者です。

この戦いはキリストの真の表現を焦点としている

さて、新約聖書に啓示されている通りの――特に使徒パウロの手紙を通して大いに豊かに啓示されている通りの――教会に近いものを実際に表現する方向に向かう動きが生じるやいなや、人間的騒乱を超えた騒乱が生じます。それには何の合理的理由もないように思われます。これを考えるヒントとするべきです。キリスト教がこれに欠けている時、それに匹敵する霊的騒乱は生じません。これは大いに意義深いことです。有機的表現に欠ける教理の提示はあるかもしれませんが、これはサタンを大して煩わせません。私たちは最大限正統的で健全かもしれませんが、サタンの全力の反対に依然として遭っていないかもしれません。しかし、実際的目的のために教会を有機的に表現することを視野に入れるとき、あらゆるところからどこからともなく問題がやって来ることに気づくのです。

繰り返しますが、キリスト教が形式的・聖職者階級的組織で、霊的力に欠けている時、サタンは少しも自分自身やキリスト教を困惑させません。キリスト教が霊性を模倣した神秘的・美的・芸術的・魂的模造品である時、サタンは少しも困惑しません――むしろ大いに喜びます。神秘主義が霊性と見なされて、大衆がその幻想の中に捕われる時、サタンは喜びます。口先の告白だけで有機的実際に欠けているなら、何の問題も起きません。名前、肩書、称号だけで、その神聖な実体に相当するものに欠けているなら、それは反対を受けることなく自らの道を進むまま放っておかれます。組織や機関があっても、天的性質と霊的性格に欠けているなら、その道は事実上何の妨げも受けません。しかし、団体的にキリストを実際に表すものを主が目指されるとき、問題が生じます――すでに述べたように、天然的・人間的方法ではまったく説明のつかない問題が生じます。

敵は、事実、自分の領域内でキリストが実際に、生き生きと、有機的に表現されることに激しく反対します。なぜなら、そのような表現は実際のところ、神の御座を実効的に衝撃力をもって示すからです。それゆえ、問題が生じます。サタンの勢力はあらゆる方法を尽くして、その実現に反対します。使徒の時代から今日に至るまで、天的・霊的・永遠的性格を帯びた教会が表される時――それがいかに小さな表われだったとしても――それを破壊しようとするサタンの断固たる多面にわたる奮闘の的にならなかったものは全くありませんでした。歴史の多くの出来事がこの発言と関係しています。これが、結局のところ、まさにエペソ六・一二以降の意味ではないでしょうか?「私たちの格闘は肉や血に対するものではなく、主権者たち(中略)権力者たち(中略)この暗闇の世の支配者たち(中略)天上にいる悪の霊の軍勢に対するものです」。しかしパウロがこの言葉を記すずっと前に、パウロの主人である主イエスご自身がこのサタンの大反対について語られました。彼は「ハデスの門」について語られました――これは「死の議会」を意味すると私は理解しています――それは教会に打ち勝つ決意をもって活動しています。

さて、これに関して敵の策略や戦略を整理しようとする試みは、私たちにとってあまりにも大きすぎる問題です。しかし、二つの点に注目することにしましょう。

第一に、御座は――それが意味するすべてのことと共に――教会に見られるキリストの表現――それが良いものであれ、悪いものであれ――によって極めて密接に影響を受けます。つまり、キリストが事実上、表現されているか間違って表現されているかによってです。御座は他の何ものにもまして教会によって直接的かつ直ちに影響を受けます。これは事実です。

第二に、二次的要因は一次的要因ではないことを私たちは常に覚えておく必要があります。これに私たちがもっと敏感で気を付けていれば!私たちはほとんど絶えずこの問題に引っかかっています。何かが起きます。人々が様々な仕方で振る舞います。状況が生じます。緊張、騒動、葛藤、その他諸々のことが生じます。すると私たちはすべてを二次的要因のせいにします――当人や関係者たち、状況、状態等々のせいにします。まっすぐ一時的要因に向かいません。すべての背後にこの邪悪な勢力がいることを理解しそこないます。あの人の振る舞いの背後には、何かそれ以上のものがあります。この一切の背後で何かが働いています。その目的はまさに、あの御座を台無しにすることです――その誉れ、栄光、影響の及ぶ範囲と領域、その民の権利・要求・福祉を台無しにすることです。多くの小さな、普通に思われる「出来事」は、まさにこれと関係しています。しかし、私たちはそれをそれだけのものとして受け止めて、二次的要因を誤って先にしてしまうのです。

前の章で述べましたが、悪魔よりもむしろ私たち自身の愚かさのせいである多くの事柄があります。しかし、この別の領域があります。私が誇張しているとあなたが思わないように、あなたを御言葉に連れて行きましょう。いわゆる二次的要因のいくつか――教会の敗北もしくはこの軍隊の退却という結果になる理解の欠陥――が実際にこのエペソ人への手紙の中に、教会の偉大な戦いの手紙の中に見られます。

「エペソ書」――戦いの手紙

「この啓示の卓越した偉大さ」

この手紙の最初の三つの偉大な章により、私たちは神の教会を示しました。永遠の過去における神の御旨によって生まれた、この驚くべき器、この神の傑作を示しました。章に分かれているせいで、その継続性、この文書全体の一体性を、私たちは時として認めそこなっており、一つの段階から次の段階へと自然に移っていけていないのではないかと、私は恐れます。しかし、ここにこの偉大なものが示されています――それは言わば永遠から引き出されて私たちに示されています。そして、人の数百語の言葉によるこの説明は、約二十世紀の間、それを理解しようとするあらゆる試みを阻んで退けてきたものであり、今日、以前にもまして人々はそれに向かって身を伸ばしています。これは誇張ではありません。あなたはそれを理解できるでしょうか?この最初の三章の最も短い文章のいくつかを見てください――あなたは打ちのめされるでしょう!

さて、この手紙の後半(四~六章)に含まれている主題は、四つの区分に分かれています。最初の二つの区分は短く、最後の二つの区分は長いです。それらをごく短く概観する一方で、それらを適用しそこなわないようにしましょう。

(a)「召しにふさわしく歩む」

パウロは、このように教会を示して、今や、完全に自然な流れで、その実際的結果に関する考察に移ります。彼の冒頭の言葉は、難問と試金石に満ちています。「私は(中略)あなたたちに懇願します。あなたたちが召された召しにふさわしく歩みなさい。謙虚と柔和を尽くし、忍耐をもって、愛の中で互いに忍び合いつつ、御霊の一を熱心に保ちなさい……」(エペ四・一~三;改訂標準訳三節と対比せよ)。さて、これらはあるとてもありふれた「二次的原因」と直接関係しているものです。しかし、この途轍もない御旨全体――それは永遠の過去からのものとして啓示され、明かされました――が真に表現されるかどうか、それはたんなる幻や、たんなる考え・理想ではなく、現実であることが証明されかどうかは――すべて私たちが「ふさわしく歩む」ことにかかっています。私たちの歩みにかかっています。すべてが、私たちの謙虚さ、柔和さ、忍耐、私たちが愛の中で互いに忍び合うこと、一を保つ私たちの熱心さにかかっています。これは私たちにとって難問ではないでしょうか?しかし、これらは戦場における私たちの霊的武器であり、それらを効果的に用いるには多くの恵みと信仰が必要です。

ああ、挑発、いら立ち、立腹!――昼間私たちの上に臨むこれらすべてのことは、私たちの生活を矛盾したものにし、私たちの歩みをふさわしくないものにします!謙虚さに対する挑発!自己主張、喧伝の罠。自分が注目の的になり、自分自身を示し、自分自身に注意を引き、人々が自分たちに注目することを欲します――これはみな、それに他の多くの事柄も、謙虚さや柔和さの反対です!「忍耐をもって、互いに忍び合い、一を保つことを努めなさい」――私たちの改訂訳ではこうなっています。改訂標準訳では「一を熱心に保ちなさい」となっています―― 一を熱心に、熱心に保つのです!ああ、これは戦いです、途方もない戦いです、決死の戦いの一部です。敵はこうしたことに関して特に執拗でたゆみないのです。なぜなら、こうしたことは教会を戯画化し、御座に触れるからです。

しかし、こうしたことをみな、いわゆる「二次的原因」の領域に移すことも可能です。「しかし彼はこれこれのことをしました(中略)彼女はこれこれのことを言いました(中略)それで私は動揺しました(中略)動揺して当たり前です!」。これは物事を見抜いて別の何かを見る代わりに、物事の上辺を見ることです。ああ、そうです、さらに深く見るなら、そこには一次的要因があることがわかります。それが起きるタイミングからこれがわかることがしばしばあります――それはとても邪悪で、とても異様です。あるいは、その攻撃がどこから来たのか、その攻撃はなぜなのかを考えることによって、その真の源が明らかになるかもしれません。しかし、私たちは常にそれに気を付けているわけではありません。それに引っかかって敗北し、この驚くべき教会に関する私たちの素晴らしい観念はすべて無価値になってしまいます――まさに粉々になってしまいます。

(b)「信仰の一」

第二区分の四・四~六に向かうことにします。ここで、とても短く、問題とされているのは、キリスト以外の何かを一の基礎とする危険性です。「一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ、すべてのものの神また父は一つ」。これが一の基礎です。しかし、あなたがその気なら、これによって分裂を生じさせることも可能です。人々が「『一つバプテスマ』の意味は何でしょう?」と尋ねるのを私は耳にしてきました。ある人々は、「もちろん、それは聖霊のバプテスマのことです」と言います。他の人々は、「もちろん、それは水のバプテスマのことです」と言います――すると直ちに、このまさに一の基礎に関して分裂が生じます!このどちらの解釈も必ずしもここにはあてはまらない、と私は思います。その意味は次のようなものだと私は信じています。すなわち、「私たちはみな一つ御霊の中で一つからだの中へとバプテスマされました」(一コリ一二・一三)という意味です。そして、この「一つバプテスマ」はキリストの中へのバプテスマです。何なら、これは聖霊によると言うこともできます。それは水によるとあなたは言えるでしょうか。水によってキリストの中へとバプテスマされる人は誰もいません。水によるキリストの中へのバプテスマを彼らは証しするかもしれませんが、それは別問題です。一つバプテスマは、私たちが信じた時のものであり、私たちはみな一つ御霊の中で一つからだの中へとバプテスマされたのです。

ですから、問題は「あなたはキリストの中にあるでしょうか?キリストの中へとバプテスマされているでしょうか?」ということです。これが一の基礎です。もしさらに何かを一の基礎とするなら、私たちは一を分割し、破壊し、一つの真理を否定してしまいます。この基礎で十分です。この「一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ、神また父は一つ」の中に含まれるものをすべて知っていれば、それで十分です。それにしたがって生きるとき、私たちは敵の地歩をかなり得ることになります。一の基礎であるそれに付け加え始めるやいなや、私たちはその立場全体を引き渡し始めることになります。私たちの特別な解釈や教えや教理には、一の基礎としての価値はまったくありません。重要なのはこの基礎だけであり、それで十分です。

(c)生活の聖さ

三番目の区分、四・一七~五・二〇は長い区分であり、とても多くの内容を含んでいて、多くの領域を網羅しています。しかし、この区分を読み通すなら、これはみな次のような意味であることがわかります。すなわち、個人的・団体的生活の聖さです。敵はこれに反対することを覚えておいてください。この方面で敵はアジアの諸教会の大部分で勝利していました。使徒ヨハネによる使信を通して、主が彼らを責めなければならなかった主な点は、腐敗、汚れ、誤った道徳生活でした。パウロは、ここで、この聖さの問題に関して多くのことを述べなければなりません。第一に、個人的に私たちの聖さに関して、次に、私たちと他人との間の聖さに関してです。なぜなら、敵がこの領域で私たちに触れて私たちを損えるなら、敵は御座を打つことになるからです。御座を辱め、その影響力が及ぶ領域を制限し、私たちや他の人々から私たちの嗣業を奪うことになるからです。これは鋭いです!

(d)人間関係

最後に四番目の区分、五・二一~六・九があります。この区分は主に家庭関係について扱っています――妻に対する夫の関係、夫に対する妻の関係、親に対する子供の関係、子供に対する親の関係、主人に対する僕の関係、僕に対する主人の関係について扱っています。これらの関係は敵が活動する絶好の機会です。しかしここでもまた、私たちはあまりにも現実に対して鈍感なため、習慣的にこれらの二次的要因を一時的要因にしてしまいます。これらの家庭・社会関係における刺激や負担や困難が、私たちを霊的に行動できなくさせたり、私たちの霊的生活を損なって無に帰しさえする影響を及ぼすことが、どれほど多いことでしょう。そしてまた、これらはしばしばとても狡猾な方法で生じます。私たちは自分たちの失敗からこの教訓を学べないのでしょうか?とても多くの場合、敵は妻を通してあるいは夫を通してやって来ます。まさに明らかになろうとしている、霊的にとても大きな益があるものに関してやって来ます。私たちはこれについて何も知らないかもしれません――しかし敵は知っています!同じことが子供に関しても起きるかもしれません。悪魔は子供たちを通して多くの策を弄することができます。

それで、こうした関係がすべてここで導入されます。その要点は次の通りです。私たちは動転して、直接当事者たちを責めてばかりいてはならないのです。もしそうするなら、私たちはこの戦いに負けます。まず第一に、その機会があれば、静かに立ち去って、「今、敵の目的は何でしょう――敵は何を求めているのでしょう?」と尋ねましょう。おそらくここには、この騒動――それがどれほど現実的で正当なものに思われたとしても――以上の何かがあります。色々な事が起きているのは全くその通りです。それは空想ではありません。しかし、これはただそれだけのものなのでしょうか?これを背後から完全に打ち破れるのではないでしょうか?これをその本部で対処できるのではないでしょうか?私が言わんとしていることはおわかりでしょう。性急な皮相的観点に基づいて、私たちはこれをみな一次的要因と見なすかもしれません。しかし、静かに祈り深く考えるとき、それらは全く二次的要因にほかならないことがわかります。二次的要因を基準にしてはいけません。むしろ、それらの背後に回って、隠れた一次的要因――この場合は大敵の活動――に至らなければなりません。

啓示と戦いには関係がある

さて、いま考えたこの四つの節もしくは区分は、教会に関するパウロの強力な啓示・提示と、それに対する霊的戦いに関する彼の偉大な示しとの間に置かれていることに、あなたは気づくでしょう。意義深い位置にあります!ここに比類ない神の御思いである教会が示されています。ここに、他方において、無数の悪霊どもとの戦いが示されています。そして、両者の間に挟まれた形で、夫と妻、妻と夫、子供と親等々があります。無関係である、とあなたは反対されるでしょうか?それに答えて言いましょう。四章一節の「こういうわけで」は、私たちの行動と振る舞いに関するこの中間区分を、それに先立つ啓示と直接関係づけているのです。事実上、「こういうわけで、もしこれらの関係に気を付けないなら、この啓示はすべて無価値です!」と述べているのです。

そして六章の「最終的に」という言葉は(この言葉は「最後に」という意味ではなく、「さて、この点からすべてを先に進めると」「すべてをまとめて先に進めると」という意味です)――この「最終的に」という言葉は、啓示と行動の両方を戦いの中にもたらします。「最終的に、主の中で強められなさい(中略)なぜなら私たちの戦いは……」。これはみな途方もない戦いの一部なのです。日常茶飯事とあなたは見なすかもしれませんが、それらをみな対処することは、大いに霊的戦いの一部なのです――敵自身との赤裸々な戦いに出て行くのと同じくらい、大いにこの霊的大戦争と御座の大問題の一部なのです。

終えるにあたって、私たちが見てきたことはみな、ある重大な意味を帯びていることに注意しましょう。それはこういうことです。まず、エペソ書一~三章にあるような教会に関する教理を持っていても、それに見合う生活と歩みに欠けているなら、この問題全体を損ないかねません。私たちは教会――素晴らしい用語、素晴らしい観念です――を持っているかもしれません。それについて際限なく話すかもしれません。それはあまりにも素晴らしく、あまりにも魅力的だからです――しかし、それは効果を発揮しているでしょうか?本当に効果を発揮しているでしょうか?私たちは本当にその中にあるでしょうか?その答えは私たちの日々の歩みと行動の中にのみ見いだされます。これまで述べてきたいわゆる「普通の」関係の中にのみ見いだされます。それが答えです。これは真に、私たちの在り方や私たちの持ち物すべてと共に、私たちがこの中にどれくらい入り込んでいるのかの問題です。

キャンベル・モルガン博士がとても鋭い発言をするのを聞いたことを思い出します。彼は言いました、「ありえない仮定をするのをお許しください。かりにキリストが敗北されたら、あなたは何を失うでしょうか?あなたはどれくらいあなた自身をこの問題に投資しているでしょうか?もしキリストが敗北されたら、あなたはすべてを失うでしょうか?」。確かに、これはありえない仮定です。なぜなら、彼は決して敗北しえないからです。しかし、何らかの方法で彼が私たちの中で敗北されると仮定すると、私たちは何を失うでしょうか?

この戦いの核心は御座である

また、これらの実際問題を教会の権益から、そして霊的戦いから切り離すなら、それらを対処する力がなくなります。あなたはこれを把握しているでしょうか?もしこれらの家庭の状況を対処できないなら、もしそれらの問題――「彼はとても厄介な夫です」「彼女はとても頑固な妻です」「この子らはとても手に負えません」――と格闘してばかりいるなら、もしそれらの問題を対処するために戦っているところなら、あなたにはわかっているのではないでしょうか?それは結局のところ教会の問題ではないかもしれませんが、自分があまり先に進んでいないことを。そして、この諸々の状況を対処するための適切な背景が自分にはないことを。あなたはその問題を主の証しと関係づける代わりに、その問題を単体で取り扱おうとしているのではないでしょうか?あなたとあなたの夫あるいはあなたの妻との間のこの不調和、不一致は御座に触れるものであり、主の栄誉に触れるものであり、まさにその見地に基づいて対処されるべきものであることを、あなたは認識していないのでしょうか?それはたんに私たちの小さな家庭問題を解決する問題ではありません――私たちは一般的状況に処する力を得なければなりません。もしかすると、これらの問題は御座が関係している大きな霊的戦いの一部であることを認識しつつ、これらの問題を正しい領域の中にもたらすなら、物事が驚くべき方法で起きていることに私たちは気づくかもしれません。

しかし、最終的に私たちは出発点に戻ります。この詳細全体を上回る支配的問題は、御座の問題です。その誉れと栄光、その影響の及ぶ領域と範囲、御座の権利と要求と権益、その下にある人々の幸福です。すべてがそれに立ち返ります。なぜなら、これがこの戦いの目的だからです。私たちの家や、私たちの地元の群れで、批判すること、裁くこと、罪に定めること、互いを見つめ合って、状況や人々に罪を着せることをやめようではありませんか。裏側から自分たちの問題を取り扱うべきではないかどうか考えようではありませんか。どの土地でも、教会にこれをそのように取り扱ってもらおうではありませんか。教会にまじめにこの状況に直面してもらおうではありませんか。「ここを見てください、主の御座と主の誉れがこれによって影響を受けています。神がこの道具、この器を起こされたことを私たちは信じます。そうである以上、それは御座と関係していたのです。ですから、神の御言葉によると、この器が教会の真の表現となることが必要です。それゆえ、地獄がこぞってそれを駄目にし、傷つけ、難破させ、破壊しようとすることがわかります」。

これはなぜそうなのでしょう?敵は個人としてのあなたや私、小さな地元の群れや団体のことを気にしているからではありません。あの御座に目を付けているからであり、私たちの状況――家庭や教会の状況――は御座に触れているからなのです。この現実に順応しようではありませんか――それはすべて御言葉の中にあり、真実だからです。このように問題を取り扱おうではありませんか。私たちの姿勢は次のようなものでなければなりません、「この状況がこれ以上続いてはなりません。それと関係しているもののゆえに、もはや一日たりとも続いてはなりません。いかなる代価を払っても、この問題に関して敵を滅ぼさなければなりません!」。

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