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私たちの戦い

T・オースティン-スパークス

第一章 最高司令官

「なぜなら、私たちは肉の中で歩いてはいても、肉にしたがって戦っているのではないからです(なぜなら、私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神の御前に力があって、要塞をも破壊するものだからです)。」(二コリント一〇・三~四)

聖書は神の民の戦いについてとても多くの内容を含んでいますし、彼の民である私たちはこの主題について多くの教えを持っているかもしれませんが、私たちは受けた命令を――状況、環境、出来事に――適用することにかなり失敗してきたと言っても、おそらくいいのではないでしょうか。そして、これが私たちの個人的・団体的問題の多くの理由であると言えるのではないでしょうか。敵が主たる原因ではなく、むしろ私たち自身の愚かさや無防備さ――私たち自身の過ち――のせいであることもかなりありますが、それでも、敵の影響力、妨害、行動のせいであることが圧倒的に多くあります。私たちの今日の必要は、霊的戦いの現実について教えてもらうことよりも――私たちはそれが事実であることを知っています!――状況の背後にある別の要素に対してもっと敏感になることです。私たちは状況を対処しようとしていますが、ほとんど成功していません。物事を、まるでそれがすべてであるかのように、対処しようとしますが、往々にして、その隠れた真の意味を見逃してしまいます。

私たちに必要なのは、ですから、理解力と知恵です――なぜなら、知恵は知識を適用する能力を意味するからです――この霊的軍事作戦全体、私たちの戦いとその諸々の原理に関する知恵です。しかし、直ちに言わせてください。私たちはサタン、悪鬼ども、悪鬼学の学びに取り組むつもりはありません!敵の大のお気に入りの罠は、人々を自分に専念させて、頭をいっぱいにすることです。神の助けにより、私たちはこの罠にはかかりません。私たちの目的は、おもに主の側から見た霊的戦いそのものについて学ぶことです。

ここで、今回話すメッセージの発端もしくはきっかけについて、短く述べさせてください。私は一般的書物をあまりたくさん読む時間がないので、霊的書物を読む時もそうでない書物を読む時も、まじめに読む本がすべて霊的に益となるよう祈ることにしています。最近、合衆国に発つ直前にそうしていたら、ある本が私の注意を引きました。その本からの抜粋が私を捕えました。それは第二次世界大戦中の東南アジア大軍事作戦の記録であり、「敗北から勝利へ」という題がついていました。それは詰まった字で印刷された五百五十ページの重たい書物であり、加えて索引が二十三ページありました。しかしこの抜粋に捕らえられてしまったので、私はその本を携えて行き、航海中、注意深くノートを取りながら読みました。そして読み進むうちに、この本を通して主は私を何かに導いておられること――その本の中にご自身の民のための主のメッセージがあることに、ますます強く印象付けられていったのです。

この本の中には長い黙想を要する題材がたくさんあります。その大部分は、今日、特に神の民にとって真に価値があります。とりわけ、主の権益に対して責任を感じている人々にとってそうです。私たちの今回の考察では、最も決定的・本質的な二、三の点だけを取り上げることにします。しかし、この本が網羅している主題の幾つかについて私が述べる時、あなたはその絶大な可能性に気づくでしょう。幾つか例を挙げましょう。最高司令官、幕僚と兵員――それから発するすべての序列、上への忠誠と下への忠誠、訓練、備え、目的は一つだが機能は多様であること、諜報、士気、柔軟性、一方の最高司令官と他方の敵の大目標。識別力のある人なら、この十の点は長期間にわたる有益な考察への門戸を開くものであることを理解するでしょう。それがすべて霊的用語に翻訳・通訳されて、主の民がこのような戦略を霊的に持っていたなら、彼らはどれほど凄まじく効果的な民になっていたでしょう!

さて、これは学んだ教訓の書であること、この偉大な教訓のほとんどは敗北を通して学んだものであることを、覚えておかなければなりません。つまり、第一次東南アジア軍事作戦の恐るべき物語――惨劇、退却、数万の人命の損失、それに伴うあらゆること――が歴史に刻まれたのです。それは、先に述べた決定的要素が欠けていたか、不十分だったか、乱れていたためです。確かにこれは私たちに教訓を与えます。神の民とその指導者たちは、少なくとも自分たちの敗北や退却から、速やかかつ徹底的に学ぶべきではないでしょうか?

高等指揮官

主要な点である「最高司令官」から始めることにします。ここでこの本の著者は、私が大好きなある表現を用いています。彼はそれを「高等指揮官」と呼んでいます。これは素晴らしいです!ぴったりです!「最高司令官」――「高等指揮官」。この文脈の中で次のような記述があります。「究極的勝利への最初の一歩は、陸・海・空の全軍を統制する最高司令官を立てることだった」。これを霊的領域に適用すると、これは何という記述でしょう!恐ろしい大惨事、悲劇、敗北を輝かしい完全な勝利に転じるものは、その第一歩として――おそらくその主要な一歩として――最高司令官を立てることであると、ここに述べられています。これは幾つかの異なる問題に帰着することがわかります。しかしこの本は(もちろんそれ自身の領域、すなわち、この地上でのことですが)、疑問や疑いの余地がないほど、すべては最高司令官または高等指揮官を中心としておりそれにかかっていることを、自ら実証しています。

これはこれまで見過ごされてきたか、せいぜい選択肢の一つと見なされてきたように思われます。しかし今、その絶対的必要性を示す証言や証拠が、その重みに圧倒されるほどここにあります。この高等指揮官、この最高司令官は、たんなる理想論でも、形式ばったものでもありません――必要不可欠なものなのです。この事例では、多くの人命、年月、名誉、自由、勝利が救われるかどうかは、すべてこの一事にかかっていたことが、明確に示されました。命は失われ、時間は浪費され、名誉は汚され、自由は犠牲にされ、勝利は敗北に転じ、所有物は損失と無に帰しました。この最高司令官、この高等指揮官が不在だったためです。

そして二千年の歴史の光に照らして見るとき、これは概して教会の物語であると述べても、誰もそれを誇張とは思わないでしょう。命、人は失われ、時間は浪費され、主とその教会の名誉は地に落ちました。自由、勝利、豊かさについてはどうでしょう?――そうしたものはあまりありませんでした。そしてその原因を辿ると、この同じ問題に行き着くのではないでしょうか?すなわち、高等指揮官、最高司令官を過小評価していたこと、もしくは、従っていなかったという問題です。戦争によって、それは必要不可欠であって、他に選択肢は何もないことが実証されました。教会においても、すべてに優り、すべての上にあり、すべての中にあり、すべてを貫くひとりの御方、その地位にある唯一の御方がいなければなりません。

相互理解

最高司令官の必要性の問題について分析されており、その分析の結果明らかになったのは、最高司令官と軍隊は互いに知り合い、理解し合わなければならない、ということです。以下に引用します。「最高司令官は、もし賢明なら、自分の軍隊が自分を知るように配慮するだろう」。これについて多くのことが述べられています。最高司令官はたんなる名目や傀儡ではありません。どこか遠くにいて万事を掌握している人、話にのぼるだけの人ではありません。個人的に知られています。この最高司令官が、自分の軍隊の間に降りて行って自分を知ってもらうこと、個人的接触を持つことを、いかに自分の職務としていたのかを、この本は示しています。彼は自分の民を知っており、彼らも彼を知っていました。

これは単純ですが大いに賢明な記述です。それにはどんな意味があるのでしょう?主にとってまず必要なのは、私たちにご自身を知らせることである、という基本原則を意味します。何かをできるようになるには、まず私たちが主を知らなければなりません。これなしに勝利はありません。主を知る私たちの知識によって、この戦いで私たちがどれくらい進めるかが決まります。事実、この知識に欠けるがゆえに停滞・敗北することがよくあります。これを裏返して言うと、往々にして、私たちが主を知る新たな知識の中に入る時はじめて、私たちは勝利の新しい道を進み続けることになるのです。主は大いに苦労して、ご自分の民がご自身を知るようにされます。

これは私たちを新約聖書に連れ戻します。エペソ人への手紙――あの偉大な戦いの手紙(なぜならそれはそのようなものだからです)――で、パウロは「知る」という言葉を大いに凄まじく強調しています。その冒頭で彼は祈ります、「それはあなたたちが彼の召しの望みの何たるかを知るためです」「それはあなたたちが聖徒たちの間にある彼の嗣業の(中略)富を(中略)知るためです」。「それはあなたたちが(中略)彼の力の卓越した偉大さを知るためです」(一・一八~一九)。「それはあなたたちが知るためです……」!「知る」というこの言葉が、私たちの戦いというこの問題全体を支配する言葉です。熟練した兵士だったので、パウロは主を知ることを大いに強調しました。「それは私が彼を知るためです……」と彼はある箇所で書いています(ピリピ三・一〇)。人々が重要視している他の何ものにもましてこれは遥かに重要である、と彼は述べました。彼はこの知識を彼が以前持っていたあらゆるもの――莫大なこの世の嗣業の富――と対比しています。「しかし」と彼は言いました、「私はそれをみな無――塵芥――と見なします。それは私が彼を知るためです」。これによりパウロはあのような戦士になったのであり、彼を通して教会の士気が大いに上がったのです。

「最高司令官は、もし賢明なら、自分の軍隊が自分を知るように配慮するだろう」。もしこの地上の死すべき人のことを賢明だと言えたとするなら、私たちの最高司令官はさらに賢明です。主は最高の知恵をもって――私たちはこれを謹んで申し上げます――彼を知る私たちの知識が絶えず増し加わるよう確証してくださいます。

最高司令官の印

次に、最高司令官に要求される諸々の特徴と、それらがその軍隊に及ぼす影響について見ることにしましょう。

(a)明確に定められた目的を持っていること

第一に、最高司令官は明確に定められた目的を持っていなければなりません。私たちの最高司令官はそれを持っておられることを、私たちは新約聖書から知るべきです。しかし、私たちも彼と共に、その明確に定められた目的が何なのかを知ることが大いに重要です。そうでないことが、私たちの弱さの大部分の理由であり、その結果、このような損失と遅延を被っています。主の究極的目的がまさに何なのか、新約聖書から二、三語で説明できる人は神の民の中にどれくらいいるでしょう?私たち自身はどうでしょう。私たちはできるでしょうか?ノート用紙半頁に、主の究極的目的が何かを書けるでしょうか?もしできないなら、私たちはこの戦いで損失を被っており、制限の中にあります。十分な数の主の民が、主の究極的目的を明確に疑問の余地がないほど理解することによって、共に堅く結ばれたなら、どういうことになるか考えてみてください!主はこれをご自身の軍隊に知らせてくださっています。御言葉にこうあります、「すべての人に見せるためです……」(エペ三・九)。人々が見るべきものは何か、あなたは覚えているでしょうか?

(b)目的を達成する明確な計画を持っていること

第二に、最高司令官はこの目的を達成する方法に関する包括的かつ詳細なビジョンを持っていなければなりません。私たちの最高司令官は、疑いなく、ご自身の目的を達成する方法に関する詳細なビジョンを持っておられます。それゆえ、私たちも同じように、そのビジョンの中で指導を受ける必要があります。言い換えると、私たちは自分たちがどこに向かっているのか、何を求めているのかを、主と共に知らなければならないのです。私たちは言わば「やぶを叩いて」いるのでしょうか?堂々巡りをしているのでしょうか?ただ実験しているだけなのでしょうか?私たちの努力と出費全体のどれくらいの割合が、真に効果的なことを達成しているでしょうか?主の民は単一のビジョン――その目的とそれを達成しようとする神の方法に関するビジョン――によって一つにされて、共に前進する必要があります。これは持つことのできない知識ではありません。私たちはその文書を手にしています。ただしそれは、私たちがそれらの文書を学んで、この問題に関して霊的照明を祈り求める場合に限ります。神の民として、この戦いがどのように行われているのかに関して、私たちは深く考える必要があります。まず第一に、神の究極的目的――たんなる二次的・副次的なものではなく――が何なのかを、私たちは知る必要があります。そして次に、神が、それによってその目的を達成しようとしておられる原則、方法、手段に関して、御言葉によって何らかの光を与えてくださったなら、私たちもそれらのことを知るよう勤めなければなりません。

(c)十分な資源を自由に使えること

第三に、最高司令官は軍事作戦を遂行するために、十分な資源を自由に使えなければなりません。これは鋭い指摘です。私たちの最高司令官に関する限り、私たちはこの点に関して何の疑問も持つ必要はありません。私たちはこの問題に関して完全に安息することができますし、そうしなければなりません。彼はこれを遂行するためにあらゆる資源を自由に使えることを、私たちは心の底から静かに堅く確信することができますし、そうしなければなりません。私がこれまで引用してきたこの本には、利用可能な資源の不備・不足によって生じた禍について告げる、長い恐るべき物語がのっています。すでに述べたように、私たちの主の資源の十分さに関して、何の疑問もありません。しかし、その益にあずかる必要が私たちには確かにあります。再びこの大いなる戦いの書であるエペソ人への手紙を引用することにします、「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの神また父。この方はキリストの中で天上のあらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいました」(一・三)。パウロは、彼自身や教会が利用できるキリストの中にある資源について、素晴らしい理解を持っていました。この理解から、彼の極めて喜ばしい最上級表現が発せられました。「おお、この富の深さ」(ローマ一一・三三)。「計り知れない富」(エペ三・八)等々。

決定的に重要なさらに進んだ点は次の通りです。すなわち、司令官はこれらすべての資源を自由に使えるかもしれませんが、他方において、司令官と軍隊の間に何かが割り込んで、軍隊への供給が断たれるようなことがあれば、恐ろしいことになる、という点です。もちろん、これにより別の重大な主題――伝達に関する主題――が開かれます。しかし、私たちの戦いに関して、いかなる隔てもあってはなりません。疑いであれ、誤解であれ、距離や他のいかなるものであれ、彼と共にあるものまた私たちのために彼の中にあるものと、これらの資源を知る私たちの知識との間の隔てとなってはなりません。再び言いますが、個人的・団体的な弱さや敗北は、神の民の不要な乏しさのせいです。彼らは自分たちの嗣業をほんの少ししか引き出して享受していないように思われます。多くの人は利用可能な資源を知りません。敵がこれほどまかり通っているのも不思議ではありません。

(d)自分の軍隊から信頼されていること

第四に、最高司令官は、「彼を絶対的に信頼していて、あらゆる個人的・縄張的考えを喜んで彼の下に置く参謀と軍隊」を持たなければなりません。「彼の考えがわからない時でも、彼の判断、知恵、指揮能力に対する絶対的信頼がなければならない」。この地上の軍事作戦で勝利するための本質的要素について述べる時、人々が互いにこのように――「たとえ最高司令官の考えが分からなくても、彼と彼の理解力・知恵・判断に絶対的に信頼する」「参謀」(霊的にこれに相当するものは何でしょう?)「と軍隊」――と言えるとするなら、なおさら私たちはこれを理解して霊の領域に当てはめなければなりません。

彼が命じる命令は理解しずらいことが時々あります。彼の道は本当に「見いだしがたい」ことが時々あります。彼がしていることやしようとしていることはまったく悲惨なことになる、と思いそうになることが時々あります。それにもかかわらず、私たちには理解できない時、彼の道が私たちの最善の天然的判断とは反対の時、その時こそ試験の時です。私たちは絶対的に彼に信頼するのでしょうか?彼は何もしていないように思われる時、彼が戦場にいないように思われる時、彼の道がとても奇妙で不可解な時、私たちは彼の判断、彼の知恵に絶対的に信頼するのでしょうか?これは試験ではないでしょうか?

しかし、もう一度思い出してください。惨劇と敗北の最初の局面と、輝かしい完全勝利の第二の局面のどちらも、この軍事作戦全体が――関係者全員がすべての個人的・縄張的関心を喜んで最高司令官の下に置いて、問答無用で彼に指揮権を与えることにかかっていたのです。そして、このような問答無用の献身が私たちの側にも確かに求められています。私たちの司令官の統率力に関する疑問、彼の指揮能力と彼の知恵に関する疑いを私たちが持つことほど、敵の狙いを利するものはありません。そのような疑問や疑いを持っていたなら、軍事作戦全体が妨げられていたでしょう。これを述べるのはおそらく容易ですが、これが私たちがその中にある戦いの油断ならない点です。往々にして、この戦いに外側で勝利する前に内側で勝利しなければなりません。そして、この内なる戦いは、私たちの主に対する絶対的信用、彼に対する問答無用の献身、すべてを彼の主権に従わせること、というこの問題の周囲を巡っています。この問題に決着がつかない限り、私たちは軍の中で弱いままであり、勝利の道に入ることはありません。

(e)自分の軍隊の忠誠を得ていること

第五に、最高司令官は関係者全員の忠誠を得ていなければなりません。多くのことがこれによります。さらに、最高司令官への忠誠だけでなく、最高司令官によって任命されたすべての人たちへの忠誠、全兵卒に対する忠誠――事実上、全「組織」に対する忠誠も必要です。これは何と重大なことでしょう!痛ましい歴史の多くの原因は――主の側の不忠にではなく――ある程度私たちの側の不忠に、次に、互いに対する、主の民に対する不忠にまで辿れるのではないでしょうか?新たな忠誠が周囲全体に、上向きと下向きに必要ですし、主の最高の御旨に対する献身が必要です。これは、この御旨の中にある人は誰でも全員私たちの仲間であり、私たちは彼・彼女と堅く結ばれていることを意味します。

その霊的対応物とその適用

さて、司令官のこの五つの特徴は、まさにこの軍事作戦の偉大な戦略的原則そのものであり、霊的戦略に解釈・翻訳しなければなりません。信頼と協調という焦点を大いに重んじなければなりません。これはまさに主イエスの復活、昇天、高揚によって確立されたものです。「……彼をご自身の右に座らせ(中略)あらゆる支配と権威(中略)唱えられるあらゆる名を超えて高くされました」(エペ一・二〇~二一)。そこに全面的な信頼と協調の焦点である最高司令官、高等指揮官がおられます。パウロはかしらによる協調というこの問題について多くのことを述べました。すべては「適切に組み合わされ」、すべての節々が「供給」し(エペ四・一六)、すべてが調和して共に働いて各々の分を果たします。ただしこれは、それがかしらに焦点づけられている時、彼が「教会に対して万物のかしらである」(エペ一・二二~二三)時の話です。私は比喩を軍隊からからだに変えたことを承知していますが、原則は同じです。

しかし、主イエスの昇天と高揚によって、全面的な信頼と絆というこの焦点が確立されましたが、それはペンテコステの日に初めて機能するようになりました。イエスの昇天と高揚は、事実、聖霊臨在の理由です(ヨハネ七・三九)。ペンテコステは、結局のところ、エリコ前のヨシュアの経験に相当します。ヨシュアが目を上げると、抜き身の剣を持って立っているひとりの人が見えました。そこで彼は「その人のもとに行って、『あなたは私たちの味方ですか、それとも私たちの敵の味方ですか?』と言った。すると彼は言った、『いや、しかし私は主の軍の将として今来たのだ』』(ヨシ五・一三~一四)。ヨシュアはひれ伏し、くつを脱いで、礼拝しました――彼はこの御方の前に身を低くしました。これはペンテコステの効力を表しています。主の軍の将が来臨して引き継がれました。聖霊は高く上げられた主の御名と機能を帯びてここにおられます。これにより次のような問いが生じます。教会と個々人――軍隊とその中のすべての構成員――はどれくらい聖霊の唯一の統治下にあるのか、という問いです。これにより、ただこれによってのみ、軍事作戦の勝利、敗北の勝利への転換が保証されます。

「最高司令官」の問題

主がご自身の地位に就くというこの問題は、とても広い範囲にわたって適用できます。非常に多くの人々は主イエスの指導権を、名目上、言葉と口先では、理解して受け入れますが、彼ら自身はその正反対です。この戦いの中には極めて多くの「自由契約者」がいます――自分自身で個々に行動する人々がいます――彼らは強く、そうです、熱烈に、「イエスは主である」と宣言します。しかし、実は彼らの心の中では、彼らが彼らの生活、彼らの道の主なのです。彼らの好き嫌いが支配しているのです。確かに、次のような人々がいます。彼らはイエスは「主」であると歓呼し、「明け渡し」(「明け渡し」は素晴らしい言葉です!)について語る一方で、それにもかかわらず、あらゆる種類の訓練、あらゆる種類の統治、支配、指導に対する強固な反対者なのです。彼らはこの類のものをすべて否定します。彼らは「私は主にあって自由です!」と言います。主ご自身が定められた将校たちは無視されているか、蔑まれているか、ちっとも敬われていないかのいずれかです。

これは敵の手に陥ることにほかなりません。知恵はこぞってこれに反対します。これは神の御心ではないことを示す証拠が、神の御言葉の中にたくさんあります。神は、まず第一に、ご自身の最高司令官、ご自身の高等指揮官を持っておられますが、この司令官の下に――この言葉を使っても構わなければ――彼の「部下」も持っておられます。霊的責任を委託された彼の定めた体系も持っておられます。これが理解されなければなりません。そうでなければ、この軍隊は立ち往生し、敵はやりたい放題です。さらに、兵卒たちはまったく混乱して落胆してしまいます。

他方、律法主義を聖霊の地位に置く人々、光と愛を律法厳守に置き換え、それを最高司令官にし、組織を最終的権威としている人々がいます。ご存じのように、パウロはこの戦いでこの律法主義に遭遇しました。ガラテヤ人への手紙から判断すると、これこそ他の何ものにもまして彼の闘争心を引き起こしたものでした。「その者はアナテマです!繰り返します。その者はアナテマです!」(ガラ一・八~九)。この言葉が、組織を聖霊の地位に置こうとするすべての人に向かって発せられました。

他の人々はコリント人たちのようです。コリント人たちは霊的混乱と弱さと敗北の中にあり、もっぱら天然的好み、天然的判断、人々や事物に関する天然的選択によって駆り立てられていました。彼らの選択と忠義は人間的な考えや判断、好き嫌いによります。もしそのような考えがまかり通るなら、「コリント」的状態が優勢になります。思い出そうではありませんか。パウロはコリントの状況全体に注意して、荒野でイスラエルと第一世代の軍隊全体に起きたことが繰り返されるおそれがある、と述べていることを(一コリ一〇・一~一一)。彼らは荒野で滅びました。「そして」とパウロは述べています。「その道をあなたは行こうとしているのです。イエス・キリストは主であることに、あなたが注意しない限りは。あなた自身の好み、あなたの好き嫌い、あなたの判断、あなたの選択によって支配されてはなりません。聖霊に正当な地位を与えて、あなたの魂とその活動全体を任せない限り、その結末にあなたは至ることになります――すなわち、荒野で滅びるのです!」。

私たちが「最高司令官」を認識し、彼に従い、彼に対してまた互いに対して忠実な姿を、どうか主がご覧になれますように。

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