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十字架・教会・王国

T・オースティン-スパークス

第9章 戴冠

「私は良い戦いを戦い、行程を走り終え、信仰を守りました。今からは、義の冠が私のために用意されています。かの日には、義なる審判者である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の出現を慕ってきたすべての人にも授けてくださいます。」(二テモテ四・七~八)

「誘惑を耐え忍ぶ人は幸いです。なぜなら、良しと認められた時、その人は主がご自身を愛する者に約束された命の冠を受けるからです。」(ヤコブ一・十二)

「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはなりません。見よ、あなたたちを試すために、悪魔はあなたたちのうちのある者を獄に入れようとしています。死に至るまで忠実でありなさい。そうするなら、わたしはあなたに命の冠を与えます。」(黙示録二・十)

「羊飼いの長が現れる時、あなたたちはしぼむことのない栄光の冠を受けます。」(一ペテロ五・四)

「しばらくの間、御使いたちよりも低い者とされたイエスが、死の苦しみにより、栄光と誉れの冠を受けたのを、私たちは見ています。」(ヘブル二・九)
上に挙げた御言葉は、前の黙想で私たちが取り扱ってきたことをすべて一望するものであり、実際的に要約したものです。これらの御言葉は――義、命、栄光――を巡るものです。最後に三つの冠があることについて述べられているのがわかります――その三つの冠とは義の冠、命の冠、栄光の冠です。もちろん、「冠」の意味は、勝利の行程を誉れと称賛とをもって封印することです。冠は勝利と勝利の栄誉の象徴です。

試練に関する戴冠

この御言葉にはどれも、この共通の特徴があることがわかります――どの御言葉も試練と関係しています。使徒パウロは言いました、「私は良い戦いを戦い、行程を走り終え、信仰を守りました」。試練が三つの比喩で述べられています――すなわち、戦い、競争、信頼です――どれも何か重大な問題があったことを示唆します。ヤコブの手紙と黙示録から引用した他の二つの節も試練や、厳しい試練と試みの時を示唆します。「誘惑(試練)を耐え忍ぶ人は幸いです」。「死に至るまで忠実でありなさい」。ペテロの手紙についても同じです。ペテロの手紙の大部分は「苦難」と「栄光」という言葉に要約されることはご存じでしょう。ペテロは信仰の試練について多くのことを記していますが、試練の後の栄光についても多く記しています。ペテロの手紙に栄光の冠が出て来ます。「羊飼いの長が現れる時、あなたたちは栄光の冠を受けます」。

さて、ここで大切なのは、何かとても重大な問題が身近にあるということです。そして、それはもちろん、この一連の黙想をすべて要約したものでもあります。最初から最後まで、主イエスは今まさに教会が直面しているこの重大な課題について私たちに気づかせようとしておられます――この課題とは、教会が自分の使命を成就し、その行程を走り終え、完全な信頼を維持すること以下のなにものでもありません。言い換えると、この課題はサタンの勢力の領域でイエス・キリストの絶対的主権を証明すること以外のなにものでもありません――サタンの勢力はまぎれもなく押し迫っており、新たな広範に及ぶ企みや活動により、神の王国を排除し、主イエスをこの宇宙から締め出そうとしています。私の考えに間違いがなければ、主はこの終末の時代、彼の教会を回復して、教会にその使命を気づかせてくださるでしょう。この使命のために教会はキリストにあって選ばれたのであり、そのために教会は道具及び器として存在しているのです――その使命とは、この宇宙で主イエスの至高の権利に逆らっているものに対して答えることです。

今日、この世界には神の王国に大いに逆らうものが存在していますが、私たちは本当にこの事実に気づいているでしょうか?私たちは多くの妨げが生じるのを耳にします。あなたたちがこれらの問題をたんなる地的水準に基づいて見ないように、またその外観によって多少なりとも欺かれないように、私は希望します。むしろ、私たちは出来事の背後を見、それらの前兆や意義を見るべきです。私たちが見聞きしているのは状況の最前線にすぎず、何かさらに重大な別のものの地的面にすぎません。そして、その別のものとは王国に対するサタンの企てです――おそらくこれはサタンの最後の企てでしょう。

私たちは終末の時代にかなり近づきつつあります。霊的識別力を持つ民なら、今日、状況の流れをはっきりと見ることができます。この光の中で、神の民は自分たちがどこに立っているのかを知らなければなりません。「あなたたちを試すために、悪魔はあなたたちのうちのある者を獄に入れようとしています。あなたたちは十日間苦しみを受けます」という御言葉を引用することも、あながち的外れとは言えません。ただ、この御言葉を文字どおり受け取ってはなりません。十という数字は責任を示す数です。「あなたたちは獄の中に入れられるでしょう。そこであなたはイエスの証しを担う全責任を負うことになります。イエスの証しが成就されるかどうかは、あなたが立つか倒れるかにかかっています。それには死に至るまで忠実であることが必要なのです」。さて、文字どおりの獄があるにせよないにせよ、現在、神の民はとても深刻な見通しに直面していることがわかります。今まさに、この敵意の力をことごとく私たち全員が感じているわけではないかもしれませんが、このような御言葉は多くの状況にとてもぴったりです。邪悪な問題が忍び寄ってきています。教会はこの問題に答えるよう選ばれています。私たちはみな、各自の度量に応じてこの問題に関わっています。もちろん、あなたが実際どれくらい霊的に役立つかは、あなたが主と共にどれだけ歩むのか、あなたの霊的立場は何かということに全くかかっています。私たちのうちの数人はこれまで長い時間をかけて学んできましたが、今日、霊的圧力はかつて私たちが人生で経験したことがないほど強まっています。以前、敵は私たちに一息つく暇を与えてくれましたが、今はもうあまり与えてくれないかのようです。一つの問題に別の問題が続きます。あなたたちの中には私の話がわからない人もいるかもしれませんが、遅かれ早かれ、あなたたちはこれが真実であることがわかるでしょう。

義の冠

さて、この三つのものを見ることにします。まず第一に義――義の冠――です。前の黙想で述べてきたように、義はこの二つの王国の間の宇宙的大戦争の戦場です。では義とは何でしょう?結局のところ、義とは神がご自身の権利を獲得されることです。大昔、絶対的主権に関する神の権利に対して非難と攻撃が加えられました――それはこの今の世界が創造される以前のことです。天でこの攻撃が失敗すると、次に地で攻撃が続行されました。アダムが神を裏切った一大背信により、この世界とこの人類はサタンの手に渡ってしまいました。アダムの内で自己が高慢という姿――自己利益、自己実現、サタン的「私は……しよう」――を取って、神に敵対して立ち上がりました。これが不義です。これまで見てきたように、義はまさにこの反対です――もはや「私」ではなく主であり、中心が自己中心から神中心に変わることです。これが戦場です。これは私たちの外側ではなく内側のことであることを私たちは知っています。私たちが彼にあって神の義とされるために、彼は私たちのために罪とされた、と聖書は私たちに告げています(二コリント五・二一)。これにより備えがなされたので、私たちは性質の変化を享受することができます。義は神がすべてのすべてとなる性質であり、すべてが神に焦点づけられて神へと至る性質です。不義は自分が中心となって、すべてが自分へと至る性質であり、これはサタン的です。

さて、これを見るなら、これはまさにパウロが述べていることであることがわかります。彼は偉大な義の使徒です。これは言うまでもありません。義という言葉でパウロが何を言わんとしていたのか、義が彼にとって何を意味していたのかを調べようとするたびに、私たちは十字架に直面します。しかも、この十字架は人に関する十字架です!私たちはローマ人への手紙の各章をよく知っています。特に六章についてよく知っています。私たちはガラテヤ書二章二〇節や、それに似た他の多くの節、たとえばコリント人への第二の手紙五章十四節を知っています――「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」。パウロは義を何か抽象的なものとは見なしませんでした。彼にとって義とは一人の人が別の人によって置き換えられることでした――アダムが完全に退位させられて、キリストがその座に着かれることでした。これが義という言葉で使徒が言わんとしたことです。義は十字架に焦点づけられており、十字架を中心としていました。十字架で堕落の二次的影響――複数形の罪――が対処されただけでなく、その一次的影響――単数形の罪――も対処されました。単数形の罪は神をその正当な地位から退位させることです。義は神をあるべき地位に、その権利と正当な地位に戻すことです。十字架はこれを行いました。パウロはこの義の偉大な英雄でした。この義は主イエスの死と葬りと復活によって確立されたものであり、パウロはこの戦いについて述べています。事実上、彼はこう述べています、「私にこの戦いが委ねられました。この戦いは神が完全かつ絶対的にご自身の地位を獲得されるための戦いです。私は一つの行程の中に置かれました。この行程の目的は、神がすべてのすべてとなられることです。神のために主イエスの十字架を通して彼の権利を確保すること――これが私に与えられた委託です。私の命はそのために注ぎ出されてきました。これは戦いだったのです」。

そして、この戦いはパウロにとって外側のものだっただけでなく、非常に多くの場合、内側のものでもありました。彼はエペソで野獣と戦ったことについて述べています。彼はこの戦いの客観面を知っていました。しかし、ああ、自分自身の戦いについて、内側で起きていることについて、彼は何と多く述べていることでしょう!完全に自己を否んで自己を拒絶するこの立場を維持すること、また神と共に神のために歩む行程を歩み続けることは、彼にとって決して容易なことではありませんでした。彼ならこう言ったでしょう、「この道により、この宇宙で神の地位に対して加えられている攻撃に応じることができます。この道は義に焦点づけられており、この義という戦場で戦い抜くべきものです。そして、これは個人的な内側の事柄なのです」。彼は大いに個人的です。ピリピ人に対して書かれたこの御言葉は覚えておられるでしょう、「それは、私が自分自身の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰による神からの義を受けて、キリストの内に見いだされるようになるためです。それは私がキリストと、その復活の力と、その苦難の交わりとを知るためです」(三・八~十)。彼が述べているのはこの義の問題に関する戦いについてであり、この戦いの結果、敵を退位させることになるのです。

私たちに関する限り、この戦いの第一の面は要求として私たちに訪れます。神にしかるべき地位についていただくために、私たちはどれだけ自分の利益――この世界に生きている私たちの暮らしの中にあるあらゆる個人的なもの――を手放す覚悟があるでしょうか?これは口で言うのはとても簡単ですが、実行するのはたいへんです。これはまさに戦いです。この戦いは、「どんな代価を払ってでも、主にしかるべき地位についていただく覚悟が本当にあるのか?」という点に帰着します。パウロは言いました、「キリストのために私はあらゆることで損失を被りましたが、それらを塵芥と見なします……」。私たちもこうでなければなりません。もし私たちが少しでも自分の方に向くなら、何か個人的利益に仕えるなら、そして主が道を得られるよう自分を完全に放棄しないなら、その度合いに応じてサタンの王国は発展し、無傷のままになります。サタンの王国に打撃を与えて打倒するのは常に、自分の生死を気にせずに、ただ主に正当な地位と権利を得ていただくことしか関心がない人々によりました。これが義であり、これが戦場です。これは私たちを試すものであり、私たちが人生で何に本当に関心を寄せているのかを試すものです。

使徒の言葉によると、この行程の最後には義の冠が待っています。「これは義という冠です」とは彼は言っていません。この冠は戦い抜いた義の戦いであり、走り抜いた義の行程であり、無傷のまま保たれた義の性質であり、神は最後にそれを授けてくださいます。神は称賛の印と証し、すなわち義の冠を授けてくださるのです。

命の冠

命の冠。もちろん、これにも困難、苦難、逆境という背景があります。「誘惑を耐え忍ぶ人」。しかし、命は戦場ではありません。命は危険にさらされているものです。これは最初からそうでした――戦いは命がけなのです。最初、サタンは自分のために人類を捕らえて、人類による神の御旨を打倒するために、計画を立ててそれを実行しました。サタンが成功を収めた時は常に、人が神の命を得る邪魔をするというこの方法で成功を収めてきました。なぜなら、神の命とは持続する命であるだけでなく、性質、ある種の性質でもあるからです。この命を巡って戦いが荒れ狂っています。将来だけでなく今も、命は勝利の印です。神に正当な地位と権利を得ていただくためのこの戦場で私たちが勝利するたびに、命が新たに解放されます。主の地位と御旨に関して主との間で論争がなされている所で勝利が勝ち取られ、主に正当な権利が帰されるたびに、直ちに命が立ち上がることを私たちは知っています。この問題に決着がつかない限り、命は阻まれたままです。私たちが主のもとに行き、問題を直視し、それについて主と決着をつける時、この妨害はなくなり、命が再び湧き起こってきて、私たちは解放されます。この命を消し去ろうとすること――これこそ敵のあらゆる活動の狙いです。

さて、御言葉が告げているように、あなたは命がけの戦いの中にあります。あなたを消し去るために、あなたを滅ぼすために、サタンがやって来ます。神の子供として、結果はあなた次第です。あなたがどれくらい主の命を握るのか、この神聖な立場の上にどれくらい踏みとどまるのか、信仰によってどれくらいこの死の働きに抵抗するのか、その程度に応じてあなたは命を知ります。ああ、この戦いは何と多くの形で、何と多岐にわたって戦われていることでしょう!ほぼ毎日、私たちの生活にこの問題――死に道を譲るのかどうか――が生じます。死という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたはご存じでしょう。私が言っているのはあなたが棺に入れられることではなく、霊的死のことです――あなたの体と思いと霊の上に臨んであなたを包み込む、圧迫と麻痺と暗闇の勢力について言っているのです。朝起きて、「今日はどうしたんだろう」とあなたはいぶかります。特にはっきりした理由もないのに、圧迫感や「死」を感じるからです。あなたはこれをどうするのでしょう?あなたはこれに屈して、「やれやれ、あまり調子が良くないので、少し休むことにしよう」と言うのでしょうか?あなたはそれに屈するのでしょうか?もしあなたがそうするなら、祈りによって実際の戦いを始めるまで、あなたは自分自身を再び解放することはできません。たんなる具合の悪さ以上のものがそこにあるのをあなたは見いだすでしょう。あなたは命がけの戦いの中にあるのです。私たちはみな、この戦いの中にあります。この戦いは激しさを増しつつあり、拡大しつつあります。こういった単純な個人的形の戦いから、今まさに教会の戦いになりつつあります――これが大切な点です――この戦いは内なる方法で戦われています。教会は本当に立ち上がって、地球上に広がったこの恐ろしい死の波を征服しようとしているのでしょうか?この問題は私たちに任されています。これが問題です。なぜ私たちはもっと早く何が問題なのかを悟らないのでしょう?私たちは二次的要因に注目して、直ちにあれやこれが原因だと考えてしまうのですが、真の原因は別のところから、背後から来ています。そして、この類のことが増えつつあります。私たちは命がけの戦いの中にあります。これは最初から最後まで大問題です。

さて、戦いを前にして私たちはどうするのでしょうか?「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。なぜなら、良しと認められた時、その人は主がご自身を愛する者に約束された命の冠を受けるからです」。私たちはどうすれば良しと認められるのでしょうか?試験問題を投げ捨てて、「こんな試験は受けられません!受けるだけ無駄です!」と言う学生が良しと認められるのを、あなたはこれまで目にしたことはないでしょう。また、「もうこれ以上やってられません!もうやめます!」と言う人が何事かを達成することもありません。「死に至るまで忠実でありなさい」。これに関して最後まで突き進みなさい。これが使徒が言っていることです。あなたは戦いの中にあるのでしょうか?屈してはいけません。あなたには走り抜くべき行程があるのでしょうか?脱落してはいけません。あなたには信頼が必要なのでしょうか?諦めてはいけません。最後まで突き進みなさい。そうすればあなたは命の冠を受けるでしょう。

栄光の冠

「羊飼いの長が現れる時、あなたたちは栄光の冠を受けます」。栄光の冠とは何でしょう?それは義と命の性質の現れにほかなりません。なぜなら、義は隠された栄光であり、栄光は現された義だからです。栄光とは何でしょう?それは何らかの方法で輝きとして知覚できる栄光であるかもしれません。時として、それは人々の間で目に見えるようになる寸前のところまでいくこともあります――これはその人々が主に自分をささげきっており、まったく無私の生活を送っている場合です。そのような人々が何らかの輝きを帯びているのを目にすることもあります。物理的な光を帯びていることすらあるのです。いずれにせよ、これを反対の方面から見ると、常に自分のことだけに没頭し、自分の生活に立ちはだかる問題や困難しか関心のない人々の場合、暗い影以外のものをあまり見ないのは事実です。彼らの表情にすら、暗い影が浮かんでいます。彼らは光、輝き、栄光をまったく帯びていません。最後には、この実際の文字どおりの栄光がこの人々の栄化された体を通して輝き渡るかもしれません。しかし、その源と座は霊的なものであると信じます。栄光とは主の命が豊かに現れることです。栄光とは主の性質――義――が輝き渡ることであり、その何たるかをまさに示すことです。栄光とは罪と死に対する勝利が現れることです。

ペテロの言葉の背景に注目することは大いに意味があります。彼は僕たる羊飼いに向かって語り、彼らに群れを養うよう告げます――それは汚れた利得や、称賛や、何かを自分のために得るためではなく、そうする義務があるからでもありません。彼らは無私の心で、利益を求めずに、自分を否んで主の権益のために自己を放棄して、群れを養わなければなりません。主のためにこの働きを行うには大きな代価が必要かもしれませんが、主に満足していただきたいということ以外の動機や目的を抱かずにそうするなら、「羊飼いの長が現れる時、あなたたちは栄光の冠を受けます」。自己の命を完全に退けて、主だけが私たちの視界を満たし、私たちの心を治め、私たちの動機となる時、最後にはこのような結果を迎えることになるのです。

義――これは神が正当な地位につかれることです。それゆえ、解放、命、勝利がもたらされます。神が正当な地位について、神の命が私たちの内で治める時、最後には栄光という結果になります。この三つの冠、この三つの証印、私たちが勝利して主が心から望んでおられたものを獲得されたことを示すこの三つの印――これを主は主と共に戦ってきた者たちに最後に授けてくださいます。戦場は義であり、この戦いの目的は命であり、この戦いの結果は栄光です。

どうか私たち全員がこの三つの冠のために走っている姿を主がご覧になれますように。しかしこれは戦い、命がけの戦いであり、内なる戦いです。私は時々思うのですが、もし私たちの戦いが外側の戦いだけだったなら、何か客観的なものを打倒すればよいだけだったなら、とても楽だったでしょう。打倒すべきものが内側にある場合、屠るべきものが自分自身の場合、ことは簡単ではありません。どうか私たちが死に至るまでも忠実でありますように。

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