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キリストとの合一

T・オースティン-スパークス

第七章 機能の合一

五.機能の合一

「一つの体の中には多くの肢体があり、そしてすべての肢体が同じ機能を持っていないように、私たちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。」(ロマ一二・四、五)

「それは、体が一つであって多くの肢体があり、体のすべての肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様だからです。なぜなら、私たちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ御霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ御霊を飲むようにされたからです。体は一つの肢体ではなく、多くの肢体から成っています。もし足が、『私は手ではないから、体に属していない』と言ったとしても、それで体に属していないわけではありません。またもし耳が、『私は目ではないから、体に属していない』と言ったとしても、それで体に属していないわけではありません。もし体全体が目であるとしたら、どこで聞くのでしょうか?もし全体が聞くとしたら、どこでかぐのでしょうか?しかし今、神は各肢体を、それぞれ体の中に、みこころのままに置かれました。もしそれらがみな一つの肢体であるとしたら、体はどこにあるでしょうか?しかし今や、それらは多くの肢体ですが、一つの体です。目は手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません。また頭は足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません。それどころか、ほかより弱いと思われる体の肢体こそ、むしろ必要なのです。そして私たちは、ほかより尊くないと思う体の部分に、さらに豊かな尊さを授けます。こうして、私たちの美しくない肢体は、さらに豊かな美しさを持つようになります。ところが、私たちの美しい肢体には、その必要はありません。神は欠けている部分にさらに豊かな尊さを与えて、体を共に調和させられました。それは体に分裂がなく、肢体が互いに同じ顧みを持つためです。もし一つの肢体が苦しむなら、すべての肢体が共に苦しみます。もし一つの肢体が栄光を受けるなら、すべての肢体が共に喜びます。今や、あなたたちはキリストのからだであり、そして各自はその肢体なのです。」(一コリ一二・一二~二七)

「……彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。」(エペ一・二三)

「それは彼が(中略)両者を一つからだの中で神に和解させるためでした。」(エペ二・一五、一六)

「……それは、聖徒たちを成就して、務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためです。」(エペ四・一二)

「キリスト(中略)この方から、からだ全体は、供給するあらゆる節々を通して、しっかりと共に結合され組み合わされ(中略)増し加わります。」(エペ四・一五、一六)

「彼は、教会であるからだのかしらです。」(コロ一・一八)

「なぜなら、夫は妻のかしらだからです。それは、キリストが教会のかしらであって、彼ご自身がからだの救い主であるようにです。」(エペ五・二三)

「私たちは彼のからだの肢体です。」(エペ五・三〇)

キリストとの合一に関するこの偉大な多面的啓示についての考察を続けることにします。私たちは今や、キリストとの合一の五番目の面に来ます。それは、私たちが機能の合一と呼んでいるものです。つまり、かしらと肢体を伴う一つのからだとしてです。

包括的機能:キリストその方を表現すること

キリストのからだの包括的機能から始めることにします。この機能は、このからだのパースンを表現することです。すなわち、キリストを表現することです。キリストのからだ、キリストのからだとしての教会は、自己表現のために存在するのではありません。それが存在するのは他でもなく、その内側のパースン、からだの中に住んでいるパースン、すなわちキリストを表現するためです。死体のことを人と言うのは決して正しくありません。それは人体であるとは言えても、決して人とは言えません。人はそこにはいません。人体はそこにあるかもしれません。他方、生きた体のことを人と言うことはできるかもしれませんが、その体はたとえ活動していたとしても人ではないこと、あるいはせいぜい人の些末な部分であることを私たちはよく知っています。体は人の表現や活動のための手段・器にすぎません。真の人は体の内側にいます。

キリストのからだも同じです。彼ご自身と彼のからだは区別されますが、それでも一体です。つまり、彼は彼のからだと一つです。そして、ある意味において、彼のからだは彼と一つです。しかし、この違いは残ります。これを心に留めておくことが重要です。キリストはいわゆる彼のからだの中に融合されて、彼自身の個性は失なわれたわけではありません。彼は彼のからだのパースンのままです。このからだがなくてもこのパースンは存在できるのと同じように、このパースンがなくてもその骨組みは存在できます。しかし――彼のからだとしての教会に関する教えは次の通りです――実際上のあらゆる目的に関してこの両者は一つなのです。つまり、キリストは彼のからだを必要とし、このからだは彼を必要とするのです。このからだは彼によって支配されています。それは、たったいま読んだ一つの節によると、それが彼の完備性、すなわち、「すべての中ですべてを満たしている方の豊満」となるためです。

ですから、このからだの機能には二つの主な点があります。一つはこの方、このパースンを住まわせること、このからだがある所にキリストをもたらすことです。それは、このからだが存在するところに、キリストもおられるようになるためです。彼はご自身をそのからだと結びつけることを決定・選択されました。それは、このからだ、すなわち教会が、彼が見い出される場所となるためです。最小の代表人数――二人――で、それが彼を任意の場所にもたらすためです。それによって彼が任意の場所や状況の中に到来できるようになるためです。ですから、このからだの一つの目的はキリストを住まわせることです。

第二に、その機能はこのパースンを表現すること、その中で又それによって主がご自身を表現して知らせることができる手段・器となることです――人々が主を見、主を知り、主を理解するようにすることです。これはとても単純ですが、とても困難です。

幾つかの事柄がこれと関係しています。まず第一に、それと関係する二次的事柄を見ることにしましょう。このからだを誇張するおそれがあります。これは時々物理的・人間的領域でなされます。外面的なもの、体、布をあまりにも強調し、精緻化し、強化し、装飾するあまり――このパースンを覆い隠すことになって――主の臨在ではなく、形式、式典、外面的なものが強い印象を与えることになります。それは人々の感覚に触れるものであり、そのため教会の外面的なものに彼らの目は奪われ、彼らの人間的な天然の感覚はそれで一杯になってしまいます。時として、この人々自身が強い印象を与えることもあります。そのため、主ご自身を見い出すことができません。体を誇張することも可能です。そしてこの――おそらく誇張された――遵守とは別に、他の多くの方法で、私たちは教会に関する、キリストのからだに関する方法論を持ち込むおそれがあります。いかになされるべきか等の、多くのことが目に入って来るため、主ご自身ではなくそうしたことしか気が回らなくなってしまいます。もしとても注意深くなければ、この教えですら目を眩ませる働きをしかねません。内側のパースンである主が、用いられているすべての手段を超越していないなら、何かが間違っているのであり、私たちは自分たちの方法を再考した方がいいでしょう。

次に、体を人工的なものにするおそれがあります――いま私は薄氷の上に乗っています――化粧、装飾、塗装によってです。それは要するに何なのでしょう?それは魅力に欠けていると思われる所に魅力を創造しようとする試みです。読者の誰かがこれで不快になったならお許し下さい。しかし、これがその根本的な目的です――すなわち、ある印象を与えること、荘重さを付与すること、魅力を感じさせること、欠けていると感じるものを補うことです。強い印象を与えるために、教会に関してこのような骨折りにかかりっきりになるおそれがあります。確かに、それに関してかなりのことが、組織化された教会によってこれを目的としてすでになされています。人々はあらゆる種類のものを身に着け、取り上げ、利用しています。あらゆる塗料、金箔、金属、あらゆる人工物が利用されています。それは、衝撃力に欠けるというこの感覚を克服しようとしてです。印象付けるためです。なぜなら、元々そこには何の印象もないからです。そして、キリストのからだを人工的なものにし、その影響を人工的なものにするおそれが大いにあります。もっと絵の具を塗り、さらに塗らなければ、その効果が薄れてしまうのです。そうし続けなければ、それは色あせてしまいます。毎朝そうしなければならないのです!

他方、体を過小評価してそれについて不注意になるおそれがあります。これも同じように悪いことです。自分の身なりに不注意で、だらしなく、貧相なら、その人にとって不名誉なことです。それによってその人から何かがなくなります。その人の体面が傷つきます。これは多くの方法で適用できます。先に進むにつれて、キリストのからだを敬わなければならないことを、私たちは見るようになります。私たちは、このからだを敬う義務の下にあります。それは、内側におられる御方のためです。私が述べているのは、もちろん、主の民の交わりについてです――相互に尊敬し合い、敬い合い、助け合って、霊の命の水準を高めようと努力することについてです。状況が霊的にお粗末で、見すぼらしい、落ちぶれたものにならないようにすることについてです。他方――いささか日常的な適用を許して下さい――それは私たちの個人的な身なりにも適用されなければなりません。クリスチャンである私たちの個人的外見は私たちの主を実際のところ辱めていないでしょうか。不注意な習慣や服装、行動や立ち居振る舞いによってです。これらの事柄によって主は辱められます。クリスチャンとして私たちは決してそうであってはなりません。いま私が勧めているのは、あなたは直ちに行って入念に飾りを身に着け始めなければならないということではありません。そうではなく私が述べているのは、キリストは体によって、また体において誉れを受けるのに相応しいということです。体に関して不注意なせいでキリストに対して罪を犯すおそれがあります。私たちの相互の顧みに関して、私はもっと詳しくこれを追いたいと思います――御言葉はこれを「互いに良い業を勧め合うこと」「互いの足を洗い合うこと」と呼んでいます。つまり、地から離れているように、この世の低い水準に触れないように助け合うことです。

機能的関連性

さて、幾つかの主要な事柄を見ることにします。先ほど考慮した事柄にはおそらく二次的重要性しかないかもしれませんが、もっと重大な事柄があります。このパースンを完全に表現するのに重要な事柄があります。さしあたって私は熟慮したうえで、この言葉をキリストという言葉の代わりに用いています。というのは、そうした方が要点が分かりやすいと思うからです。このパースン――それはキリストです――を完全に表現するには、まず第一に、一つの体がなければなりません。コリント人への第一の手紙の一二章に述べられているような体であり、多くの個々のバラバラな肢体ではありません。この体は多くの切断された肢体やつながっていない肢体ではありません。キリストのからだは信者たちが聖霊の中で、関連性を明確に意識しつつ交わる交わりであり、次のような内的な印象・認識を伴います。すなわち、自分たちはすべての主の民と関係しており、この問題においては場所は最終的基準ではなく、自分たちは至る所にいる主の民と関係している、という印象・認識です。これを確かに新約聖書は、キリストを完全に表現するのに絶対に必要なこととして、極めて明確に強調しています。キリストの完全な表現は、無関係な個々の信者たちでは実現不可能です。そのようなものの中にもキリストの何らかの表現が少しはあるかもしれませんし、部分的にあるかもしれませんが、それが満ち満ちたものとなるには関連性が必要です。私はこの問題をあなたに課します。それは公に証明されていますし、絶えず実証されています。あなたのキリストの度量はあなたの関連性によります。あなたが孤独、分離、独立、別離の中にあるなら、キリストの表現に関してあなたはほんの少ししか進めないでしょう。キリストをさらに表現するには、あなたは彼のからだの他の肢体たちとの生き生きとした合一の中になければなりません。これはいくら強調しても強調しきれません。なぜなら私は至る所で、この偉大な現実の欠如に起因する霊的制限を目にしており、霊的惨禍をも目にしているからです。このからだがなければなりません。関連性がなければなりません。それはたんなる抽象的なものであってはなりません。現実でなければなりません。意識的なものでなければなりません。計画的なものでなければなりません。まさに生活の一部でなければなりません。私たちはこれを知っています――仮に私たちがそれを知らなくても、サタンはこれを知っています――主はこれを知っておられます。

相互の関連性

また次に、相互の関連性がなければなりません。相互の関連性は、この合一、この交わり、この関連性を完全に表すのに必要不可欠です。互いに助け合うこと、無条件で互いに助け合うことを目的として、共に働き、互いに思いやらなければなりません。私たちはキリストの肢体であるだけでなく――これについてはすでに二回読みました――「互いに肢体」でもあります。これは相互の関連性です。そして、互いに支え合い、互いに助け合わなければなりませんし、キリストのからだの他の肢体の益のために実際に努めなければなりません。これはキリストのからだのとても実際的な面です。これが彼を完全に表現する唯一の道です。これを試して証明しなければならない、と私は述べました。キリストの別の肢体を助けに出て行く時、あなたのキリストの度量が増し加わるのをあなたは見い出すでしょう。このからだの他の肢体の必要を顧みて、それを満たすために自分にできることを行う時、あなた自身の生活の中でキリストがますます豊かに表されるようになるのをあなたは見い出すでしょう。もし自分のことにかかりっきりで、自分自身の周りを堂々巡りし、自分自身の不平・苦難・試練・困難を処置するために自分自身に専念しているなら、そしてますます孤立して自分自身の中に閉じこもってしまうなら、あなたのキリストの度量は絶えず減少していきます。彼ご自身のものに対するこの外側の行いは、それを行う者にとって霊的増し加わりを意味します。このパースンを完全に表現するには、これが必要であり、不可欠です。

相互依存

そして次に相互依存です。これは同じことを言い換えた別の句にすぎません。これは柔和さという一般的精神を導入します。ある肢体は別の肢体に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできません。おそらく、あなたはこのようなことを多くの言葉を費やして述べようとはしないでしょう。コリントではこのようなことが言われていたのかもしれません。そこではこのようなことが起きていたように思われますし、まさにこれらの言葉をある人々は他の人々に関して用いたのかもしれません。「私たちはあなたなしでやっていけます!」「あなたには価値がありません!」。しかし、霊的な人々がこうした実際の言葉を使うことはなさそうです。しかし、私たちはそのように行動しています。あまりにも頻繁にそのように振る舞っています。これは私たちが学ぶべき学課の一つです。どういうわけか少しも尊くない肢体が必要であること――私たちはこの問題を真に考慮しなければなりません。どういうわけか、私たちが無視しようとする者たちが必要なのです。彼らがどれほど必要なのかを理解するのは、時として困難かもしれません。いずれにせよ、このような姿勢でなければなりません。主はこの人抜きでもやって行けるのでしょうか?神の救いと栄光の恵みが、この最も小さな人の上に、ことごとく下ったのではないでしょうか?そして結局のところ、私は最も小さな者ではないでしょうか?自分たちは他の人々よりも重要であり、したがって他の人々よりも神の恵みに値する、と私たちは感じているのでしょうか?柔和さというこの問題全体が生じることがわかります。相互依存は、ともかく私たちは互いを必要とすることを意味します。これは真実です。そして、互いに認め合い、互いに尊び合うこと――これがキリストを完全に表現するのに必要な基礎です。ですから、私たちは次のような姿勢を取ります、「今、この神の子にはあらゆる欠点や弱さがありますが、軽蔑することはできませんし、無価値であると切り捨てることもできません。彼らが御霊の領域の中でぴったりと全体に収まって、キリストの度量が増し加わる場所がどこかにあります」。このようにして、私たちは最も小さな者を最も重んじようと努めます。からだのこの事実を受け入れなければなりません。

機能の制定と決定

次に私たちは各肢体の機能構成という事実を受け入れなければなりません。はっきりと受け入れなければなりません。つまり、各々の肢体は真にキリストの肢体であり――それゆえ内住の聖霊を持っており――各肢体は、聖霊によって、何らかの方法である機能を持つよう構成されているのです。今、私たちはこれを自分自身に適用しなければなりません。あなたは「自分には何の立場も機能もない」と感じているかもしれません。あなたはずっとそれが何なのかを見い出そうとしてきましたが、決して見い出しませんでした。どれほど多くの人々が私のところに来て、次のようなことを述べたことでしょう――「私はキリストのからだの中で何らかの機能を果たしている、とあなたは本当に信じておられるのでしょうか?それが何か教えていただけたら有難いのですが!」。私は別の方法でこれに答えることにしましょう。私が述べているのは、神の御言葉の中に述べられているこの事実を受け入れなければならないということです。この体の描写はたんなる絵図や例示ではありません。それは現実であって、この体は比喩以上のものです。それは生ける現実であって、教会はまぎれもなく人体の諸原則に基づいて構成されています。それは真実です。そうであるからには、これらの事実は有効であり、現実であって、私たちはこの諸々の事実を受け入れなければならないのです。

さて、何なら、あなたは自分の体の諸機能について理論を立てることもできます。しかし遅かれ早かれ、あなたはその諸々の事実を受け入れなければならないでしょう。それらは事実です。そして、私が述べているこれらの事柄もそうです。私たちは次の事実を受け入れなければなりません。すなわち、聖霊が内住しているキリストの肢体として、私たちはキリストのからだの中である機能を持つよう構成されており、機能しなければならないのです。私たちは理解しなければなりません。私たちがそこにあるのは機能するためであって、寄生者や通行人になるためではありません。むしろ、キリストのからだの中で生命機能を果たさなければならないのです。この事実を受け入れて、この事実に適応するなら、聖霊は事をなすことができます。しかし、もし私たちが受動的になるなら、もし座り込んで「自分たちは何の役にも立たない。したがって、今日は卵で明日は羽ぼうきだというなら、何の役に立つのか?」と思い込むなら、もしこのような態度を取るなら、聖霊は何もなさらないでしょう。聖霊は、「今、自分の足で立って、私に機会を与えなさい。この現実、この真理に対して積極的姿勢を取りなさい。あなたはキリストのからだの肢体であって、彼に麻痺した肢体はないのです」と仰せられます。

これは、もちろん、この事実――このからだにおける私たちの立場と私たちはこの体の中で機能を持っているという事実――を受け入れる以上のことを意味します。それは私たちの責任を受け入れることを意味します。つまり、自分たちのことをキリストのからだの中で責任を負っている民と見なさなければならないのです。キリストを表現する責任を負わなければならないのです――それは自己尊重や、自己主張や、自己実現のためではなく、キリストを表現するためです。私はからだの一肢体としてここにいます。その機能は内住するパースン――それはキリストです――を表現することです。これは特権であるだけでなく、重大な責任、厳粛な命令・責任でもあります。私たちはこれを受け入れなければなりません。なぜ私はキリストに結合されたのでしょう?なぜ私はキリストのからだの肢体なのでしょう?キリストの中にあるからには、私はそのような者だからです。なぜ私はこの立場にあるのでしょう?キリストを表現する手段になる以外の目的のためではありませんし、それより劣る目的のためでもありません。もし私がそうしていないなら、私はキリストとの合一の意義に反しています。私たちはその責任を負わなければなりません。日々、キリストを表現するというこの問題に関して責任を自覚しなければなりません。もちろん、これは多くの事柄に帰着します。私たちは失敗し、過ちを犯します。間違ったことを言ったり、正しいことを誤った方法で言ったりします。どういうわけか、履行を怠ってしまいます。その時ただちに、「これはキリストではありません。私はこれを正さなければなりません。それは悪印象を与えますし、私の主を辱めます。これを清算させて下さい」と言うこと、これが責任を負うことです。このような多くの小さな事柄があるでしょう――とは言え、キリストのからだの中に真に小さなものは何もありません。他の多くの事柄についても述べることができるでしょう。

無意識に機能することは健康のしるしである

さて、健康な体では、これはみな大部分意識されずに存在しています。私が述べたことに戻って「私の機能は何でしょう?」と尋ねるなら――あなたの問題は、あなたはそれを知ることがないということです。健康な体では、すべてが無意識のうちに生じます。いつ次に呼吸するのか思案、分析、思考、決定する必要はありません。自然に呼吸します。それについて何も考えませんでした。あなたが健康なら、これがあなたの体の中で起きます。それはみな大部分無意識のうちに機能します。私たちの体組織には無意識的な感覚があります。それは私たちが感知する前に感知します。何らかの症状や感覚を覚える時、肉体的に何か問題が生じたことを私たちは理解し始めます。しかし、この組織は私たちがそれに気づく前にこれを感知したのです。それは、すでに認識していたものを私たちに認識させようとしているにすぎません。これが絶えず起きています。健康な体では、「私は何者なのか、私は誰なのか、私はどこにいるのか、私の機能は何なのか?」と自己に専念することはありません。そして、キリストのからだが健康な時、自然にキリストが表現されます。自然にそうなります。そうである時、それは極めて健康です――確かに、それが健康なのはそうである時だけです。人々が自己を意識する時、自分たちは主のために何かをしようと努めていることをあなたに知らせようとする時――そこには何か問題があります。それは主ではなく自分自身によって占有されているからだです。もし私たちが主によって真に占有されているなら、このように自己に専念することは大抵なくなります。自分の機能は何なのかと心配しないで下さい。主との合一の中に生きるなら、あなたは機能するでしょう。自分の価値が何なのか、あなたには分からないかもしれませんが、あなたは価値を持つようになるでしょう。自分がどのようにこのからだの目的に仕えているのか、あなたにはわからないかもしれませんが、あなたはこれに仕えることになるでしょう。私たちは次のような人々を確かに知っているのではないでしょうか?彼らは自分たちのことを最も惨めで、弱く、愚かだと感じてきたのですが、私たちはその生活の中にキリストの香り、キリストの麗しい香りを見い出したのです。それでも、彼らは自分たちが何かの役に立っているとは感じていなかったので、絶えず悩んでいたのです。私たちはキリストに会ったのです。それは大いに健康な状況です――その反対より遥かに優っています。無意識のうちに影響を及ぼしているのです。

そして、この無意識的な効力がある時、どこかの具合が悪くなると、内側の霊の中で感知されたことが外側でも感じられるようになり始め、私たちはその症状に気づくようになります。何か問題があることを私たちは知ります。それはどこか深いところから生じました。何かが正しくありません。私が述べているのは、理解するより先に事実が存在するということです。知的理解より先に事実が存在します。私たちが理解するより先に機能の事実は存在します。このシリーズの前の章で述べましたが、時として、教えや方法論が何もなくても、キリストのからだの実際的意義に関する真の生ける麗しい表現がありえます。これは教えが不必要になるということではありません。しかし、正しい順番では、それがまず存在しなければなりません。そして、あなたはそこにあるものを理解することによって、さらに優ったものに至らなければなりません。他方、この順序を逆転して、まずあらゆる教えや方法論を得てから次に実物を得ようとしてもうまくいきません――それは逆です。

キリストの頭首権

私は次の言葉で締めくくることにします。これは全体の鍵であり――それには私が述べたことよりも遥かに多くの内容があります。キリストのからだとその機能について私たちがどれほど多く述べられるのか、あなたはご存じです。それはまさに素晴らしい神聖な意義に満ちています――しかしすべての鍵は、すべての肢体、すべての部分によって表現されるキリストの頭首権です。私たちの頭脳は、肉体的に、生まれつき、健康な体のすべての部分に存在する、と言えるように感じます。先の尖ったもので体のどこか末端部に触れるなら――どう感じるでしょう?あなたはそれを自分の頭脳の中で知ります。そこであなたはそれを感知します。健康な体では頭は、もしそれが自由に機能でき実際に機能しているなら、すべての部分と触れ合っており、まるですべての部分によって代表されているかのようです。同じようにキリストの頭首権――彼の絶対的主権、主たる身分、主権と呼んでも構いません――がからだの任意のすべての部分によって、またすべての機能によって表現されること、これがすべての鍵です。

これはもちろん、まさに次のことを意味します。すなわち、先述したことが真実であるためには、私たちは各々、どれほど数が多かったとしても、イエス・キリストの絶対的主権の下に直ちに完全に入らなければならないのです。キリストが表現されるにはキリストの主権が必要であり、キリストが現わされるには彼がすべての部分でかしらとしての地位につくことが必要です。

さて、これをすべてのまとめとして受け取って下さい。しかし、これを記憶にとどめて、信じて下さい――なぜなら、あなたはそれを証明することになるからです――あなたは退くか前進するかのいずれかです。下降するか上昇するかのいずれかです。私たちはみな、霊的に前進するか後退するかのいずれかです。これに関して止まっていることはありえません。私たちは滑りやすい斜面におり、唯一の道は昇り続けることです。さもないと、下に落ちてしまうでしょう。道中ずっとそうでしょう。これについて思い違いをしないで下さい。動かずにいることはできません。もし前進しないなら、私たちは地歩を失います。積極的でなくなることなどできません――これは私たち全員の経験によって証明済みの事実です。クリスチャン生活において、積極的でなくなることは極めて危険なことです。熱心さの欠如によって私たちは暴露され、私たちの守りは取り去られます。そして、私たちはいつも未完成で、いつもバラバラで、打ち負かされてばかりです。関係性と相互関連性と相互依存性とを伴う、生ける有機体としてのキリストのからだというこの問題は、理論や手法ではありません。これらは命に係わる関係であり、霊の命の増し加わり、キリストの表現の拡大、私たちのまさに存在理由と関係しています。しかし、これらは必要なものです。もしあなたが主の民とのあなたの交わりを損なうなら、あなたはあなた自身の霊の命を損ないます。もし何らかの方法であなたの霊・心・行動が引き離されて孤立するなら、あなたはあなた自身の霊の命のまさに主要部を断ち切ることになります。そうなります。キリストのからだにおける彼とのこの機能的合一が必要不可欠です。それは彼にとって、彼の御旨を成就するために必要不可欠なのです。それは私たちにとって、まさに私たちのクリスチャン生活を全うするために必要不可欠なのです。

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。