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キリストとの合一

T・オースティン-スパークス

第三章 キリストとの永遠の合一

キリストとの合一についての私たちの黙想を再開することにします。キリストご自身とキリストの意義に専念して、彼の偉大さと彼の地位について少しばかり理解することによって土台を据えようと努めたので、今、彼との私たちの合一の意義について辿ることができるはずです。新約聖書はこの合一に関する様々な観念を私たちに与えていることが分かります。これらは言わば別々の合一ではありませんし、これらの合一に関して用いられている直喩は異なる人々の群れに当てはまるものでもありません。それらは一つの合一の各面にすぎません。しかし、各々の直喩にはそれ自身の特別な意義と価値があります。

1.永遠の合一
エペ一・四、五、一一:ロマ八・二八~三〇:一ペテ一・一、二:ヨハ一七・六、一一
(a)この事実はキリストの意義によって支配されている
(b)人の堕落に勝る
(c)人の贖いによって強化された
聖霊は永遠の御旨の管理者である
御霊は
(a)永遠である
(b)御旨と関係している
(c)キリストとの絆である
(d)嗣業の保証である

2.創造的・種族的合一
二コリ五・一七:エペ二・一〇、三・九:ガラ六・一五:一コリ一五・四五~四九
(a)構成された
(b)条件を与えられた(試された)
(c)注意を受けた

3.夫婦の合一
ロマ七・四:エペ五・二三、二五、二六~三二:黙一九・七、九:ヘブ二・一三
(a)最初――法的
(b)最後――霊的
(c)天の家族によるキリストの正しさの証明

4.使命の合一
マタ一六・一八:ヘブ三・六:エペ二・二一:一ペテ二・五
神の家
(a)建物
(b)家族
(c)宮
(d)執事
(e)秩序

5.機能の合一
ロマ一二・四、五:一コリ一二・一二~二七:エペ一・二三、二・一六、四・四、一二、一六、二三節、三〇:コロ一・一八等
からだ:かしらと肢体たち
(a)機能的な構成と定め
(b)機能的関連性:相関性と相互依存
(c)機能的責任
(d)包括的機能 キリストというパースンを表現すること

6.命の有機的合一
一ヨハ二・二九等:ヨハ一・一三、三・三、ヨハ一五:一ペテ二・二:エペ四・一五
誕生と成長
(a)生まれる
(b)誕生
(c)成長
 1)分与されたキリスト
 2)吸収されたキリスト
 3)キリストを知る

7.究極的に完成された合一
ロマ八・一七、一九~二一:二テサ一・一〇:黙二一・一一
(a)子らの霊的顕現
(b)体の変容
(c)団体的表現
そこでキリストとの永遠の合一から始めることにします。

一.キリストとの永遠の合一

まず初めにエペソ人への手紙の一章を見ることにしましょう。

「世の基が置かれる前から、彼の中で私たちを選び」(四節)
「みこころの大いなる喜びにしたがって、イエス・キリストを通して、私たちを子たる身分へと、彼ご自身へとあらかじめ定められました。」(五節)
「その方の中で、私たちもまた嗣業として定められ」(一一節)

いつ私たちは嗣業として定められたのか?という問いには以下の御言葉を見て下さい。

「みこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行う方の御旨にしたがって、あらかじめ定められました。」(一一節)

「御旨にしたがって召された者たちには(中略)なぜなら、彼はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようとあらかじめ定められたからです。」(ロマ八・二八~二九)。
「父なる神の予知にしたがって(中略)選ばれた」(一ペテ一・一、二)

「……あなたが私に与えて下さった人々(中略)彼らはあなたのものでしたが、あなたは彼らを私に与えて下さいました(中略)あなたが私に与えて下さったあなたの御名の中で彼らを守って下さい。」(ヨハ一七・六、一一)

ただちに言わねばなりませんが、神学的議論や討論を始めるつもりはありません。この選び、予定、聖定の問題は、ほぼ完全に数々の教理学派の中に侵入し、代々にわたって教会を数々の党派に分けてきました。そして、それは依然としてほとんど学問的主題にとどまっており、討論、議論、知的争いの対象です。私たちとしては、そのようなものに参加するつもりはありません。そのようなことは無益でしょうし、私たちにとって無意味でしょう。この領域の中を行くつもりはありません。私たちは自分自身の霊的生活のために霊的に価値あるもの、実際に価値あるものを求めています。ですから、私たちはこの問題を議論や論争の領域から引き出して、それをキリストの光の中で見るよう努めることにします。それはまったくキリストによって支配されています。なぜなら、それはただキリストの中にのみ存在するからです。

しかし、さらに進む前に、次のことを述べたいと思います。この選びの問題は教会と関係しており、教会に限定されなければなりません。(私は教会を「選民」と呼ぶことを好みます。なぜなら、「教会」というこの言葉は聖職者的観念になっているからです。)それは教会に属し、教会はそれに属します。そして、その真の意味はこの経綸しか示されません。前の経綸はみな、この経綸を指し示し、この経綸に至るよう導き、率いていたことを、私たちは神の御言葉によって理解するようにされています。まるで、前のすべての経綸の背後には、完全・完璧な経綸に至るための原動力があったかのようです。それらはみな部分的で不完全であり、満足できるものではありませんでした。どれもある点に達しただけで、その後は色あせて行き、次の段階を待つことになりました。こうして段階は進み、別の段階へと進みましたが、依然として人々は待望し、希望し、期待しつつ、求めていました。その後、この時代・経綸が到来しました。それは新約聖書では「諸々の時代の満了の経綸」(エペ一・一〇)と称されています。このささやかな句は実に意義深いです。諸々の時代は満了しました。諸々の時代はこの時代によって満了しました。完全性と終局性に欠けるこれらの時代は、この時代によって満たされました。この時代は、これらの時代に欠けていてそれらが必要としていたものを与えました。今は諸々の時代に関する完全・完璧な経綸です。今は使徒が「諸々の時代の終わり」(一コリ一〇・一一)と称している時代です。

さて、諸々の時代を直線状ではなく円状の区分に並べると助けになります。もし直線状に並べる考えを取るなら、未完の最後が次々とたくさん並ぶことになりますが、もし諸々の時代を円状に並べるなら、それらがみな一つの点で出会うことがわかります。諸時代は未完結ではなく、一つの点で成就されます。諸時代はみな一つの中心の周りに集まってそこで会します――その中心とは諸時代がすべて会する時代です。「諸々の時代の終わりに臨んでいる私たち」。これは過去の諸時代について述べているだけではありません。未来の諸時代についても述べています。なぜなら、未来の諸時代はこの時代にあずかり、この時代から自らの特徴を得、この時代から自らの意義を得るからです。そのため、過去と未来の諸時代はこの経綸を中心としています。そしてこの経綸が完全に始まる時――というのは、この経綸はキリストが肉体を取って来られたことによって始まったものの、この時代はペンテコステの日になるまでは十分に臨んでいなかったからです――ペンテコステの日に、天はもはや待てなくなったかのように、聖霊はもはや待てなくなったかのように、神のすべての御旨はもはや待てなくなったかのように思われます。そして印――キリストが天で威光ある方の右に座られた印――が得られるやいなや、この印が得られるやいなや、まるでそれらがみな殺到して、この素晴らしい到来感・到達感を生じさせたかのようでした。「さてペンテコステの日が満ちた時」という句には多くの内容があります。おそらくそれには、この日時に至った、という以上の意味があります。まるで万物がこれを待っていたかのようであり、万物がこれを期待していたかのようであり、万物がこれを求めて宙に浮いたまま息を飲んでいたかのようでした。そして、この日が満ち、この日の到来と共に、すべての時代に向かって前にも後ろにも溢れ流れました――満ち満ちた意義が過去に、満ち満ちた特徴が未来に溢れ流れました。それは過去の永遠に達し、代々の時代にまで至りました。ユダヤ人の経綸における五十年目・五十日目の意義を、この「ペンテコステの日」は遥かに上回っていました。

ペンテコステの日に何が起きたのでしょう?教会が誕生したのです。教会の時代が完全に始まったのです。このすべて、この奥義は「諸々の時代や世代にわたって隠されていたが、今や現わされた」と使徒ははっきりと述べています。この奥義は「各時代にわたって神の中に隠されてきた奥義の経綸の何たるかを、すべての人が見るようになるため」(コロ一・二六、エペ三・九)です。この諸々の時代の核心、この宇宙の核心はこの「選民」であることがわかります。

(a)この事実はキリストの意義によって支配されている

では、なぜこれがそんなにも重要なのでしょう?これは一体なぜでしょう?なぜこの時代はこれほど大いなる時代であり、なぜこの時代に天の豊かさが注ぎ出されたのでしょう?ペンテコステの日とそれ以降のこの興奮――もしそう呼んでも構わなければ――はいったいどうしてでしょう?これはまさに私たちの黙想全体の要点です。それはすべてキリストの意義によって支配されています。キリストは神の御子であり、「全被造物の長子」(コロ一・一五)、神の長子と呼ばれています。そして、神聖な啓示のどの箇所でも、この名称は相続人を意味します。彼は「万物の相続人」(ヘブ一・二)です。彼は嗣業を得なければなりません。もし嗣業がなければ、長子の観念は無意味です。それがまさに意味するのは、彼は嗣業を得なければならないということです。「その方の中で、私たちも嗣業とされました」(エペ一・一一)。「も」とは何でしょう?文脈を見て下さい。「すべてのものをキリストの中に集約するため(中略)その方の中で、私たちも嗣業とされました」。「私たち」――「私たち」とは誰のことでしょう?教会です。教会は、この一連の黙想で前に述べてきた神の御子の巨大な嗣業の一部であり、その中心部分です。教会は、神の御子の嗣業を成すこれらすべての事柄の主要部分であり、最も重要な部分です。「その方の中で、私たちも嗣業とされました」。まさにそうでした。神は御子のために嗣業を与えることを決意されました。この嗣業がいかなるものになるのか神はご存じでした――私たちは最終的にこれを神に渡すことになります。自分の子に嗣業を与えることを意図・決意している地上の父親ですら、嗣業がいかなるものになるのかについて何らかの考えを持っているでしょう。そして、それを運任せには決してしないでしょう。それを確保して、持つべき嗣業を手配するでしょう。そのように、神が万物を創造されたのは御子イエス・キリストを通してであり、また彼のためです。神は御子を万物の水準線とされました。つまり、全嗣業は御子を水準線としており、御子の周りを巡っているのです。神は「キリストの中」をその領域とされました。

さて、これはとても重要です。なぜなら、これは包括的真理を述べたものであるだけでなく、排他的真理を述べたものでもあるからです。聖書、新約聖書が完全に明らかにしているように、キリストの中にないもの、そしてキリストの中にない者たちが存在します。この「キリストの中に」は大いに排他的です。この句についてこれまでさんざんもてあそばれてきました。「アダムの中ですべての人が死ぬように、キリストの中ですべての人が生かされます」(一コリ一五・二二)という御言葉に関して、この句はそれが意味しない包括的意味を付されてきました。キリストの中ではあなたは生かされます。キリストの外ではあなたは生かされません。「御子を持つ者は命を持ちます。神の御子を持たない者は命を持ちません」(一ヨハ五・一二)。「永遠の命とは、唯一真の神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハ一七・三)。「キリストの中に」は包括的嗣業であるだけでなく、排他的領域でもあります。

では次に、神が御子のために嗣業を選び、明確にし、創造し、その嗣業を御子のものにするよう決意されたことを認めるなら、きっと次のことも認めることになるでしょう。すなわち、神は神であるがゆえに「キリストの中に」ある人々を予見しておられたのです。その論拠となる側面から考える限りはそうです。

もちろん、「私たちはどうやって知るのか?」という疑問が常に生じて入り込んできます。ここで私たちは――望むなら――たんなる教理的議論の領域の外に移ることになります。これに関する討論、議論、分析等は、その大部分が人の飽くことなき好奇心か測り知れない高慢さのせいです――人にわからないものは神にもわからないとする人のあの性質のためです。人に説明不可能なことは、神にも分からないし、してはならないというのです。さて、神の解き明かしは常に実際的です。決して理論的でも知的でもありません。常に実際的であり、常に霊的です。これを理解する時、墓に行くまで理性や知性の道にしたがってこの問題全体について討論・議論・論争したとしても、最終的にまったく決着がつかないのはなぜなのかがわかるようになります。その理由は、よくご存じのように、神にはご自身を知的に解き明かすつもりがまったくないということです。

それでも、この問題や疑問すべてに対して、知的答えよりも完全かつ絶対的な輝かしい答えがあります。あなたが心の平安、安息、確信、満足に達する時、それは他のいかなる根拠にも優ります。ある人はこの予定と選びの問題全体について次のように述べました。あなたがある扉――その扉とはキリストです――にやって来たとしましょう。その扉の表側には「誰でも来る者は」と記されていますが、その扉を通り抜けてその扉の裏側・内側を見ると、「世の基が据えられる前から彼の中で選ばれていた」(エペ一・四)という文字が見えるというのです。選びの現実を発見するのは内側であって、決して外側ではありません。「私は選ばれているのだろうか?」という疑問に、外側では決して答えは与えられません。あなたは自分のすべての疑問を捨て去って、主イエスのもとに来なければなりません。その答えは経験的なものであり、霊的なものです。その時、疑問は消滅します。消え去ります。すぐにこの問題に戻ることにします。これまで述べてきたのは、永遠の合一という事実を支配しているのはキリストの意義と、彼が御子として相続するものであるということです。

(b)人の堕落に勝る

永遠の合一は人の堕落・反逆に勝ります。人の堕落は御子に関する神の御旨を無効にしません。人の堕落は神の敗北を意味しません――決して意味しません。神ご自身の側としては、神は傷つき、悲しみ、悲嘆し、新たな状況に巻き込まれたことが啓示されていますが、それにもかかわらず、主権者たる神は平穏に進み続けます。人は反逆し、堕落しました。それによって神の御旨に変化はありません。少しも変化はありません。神は天の道筋を静かに進み続け、人を信仰を通して再び天の道筋に引き上げ始められます。人々が信仰を通して天の道筋に再び引き上げられて戻されること――これが旧約聖書の物語です。

信仰には一つの機能があります。信仰の機能は廃墟の中から、損なわれた人類の中から、損なわれた世界から引き上げることです――時間の中から引き上げて永遠にもたらすことです。私たちをこの地上から、私たち自身と私たちの在り方と私たちが巻き込まれているものから引き上げて、天の水準にもたらすことです。旧約聖書は最初から最後までこれが信仰の機能であることを示しています。信仰を行使することを神が要求された時は常に、それによって人は自分のいたところから連れ出されて天の神との合一にもたらされました。アブラハムや天的な民であるイスラエルがそうでした。イスラエルのすべての人の衣服の裾に付いていた青色は、その人がこの下界には属さないこと、上なる天に属すことを物語っていました。その人は信仰によって歩いていたのです。信仰の一つの機能は天的立場を取り戻すことです。これには、もちろん、多くの面や適用がありますが、どうかこれを覚えておいて下さい。信仰が試みられる時は常に、これがその結果なのです。私は自分自身の中にとどまるつもりでしょうか、それとも神の中にとどまるつもりでしょうか?私はこの世の中にとどまるつもりでしょうか、それとも天の中にとどまるつもりでしょうか?これは常に、小さな点に至るまで、信仰の問題です。経綸が異なっても、信仰の働きの形が異なるだけです。信仰はどの経綸も同じです。信仰の働きの形は経綸毎に異なりますが、信仰は同じであり、永遠であり、経綸はありません。信仰はすべての経綸の上にありますが、それらをすべて包含しています。

これが何を意味するか分かるでしょう。信仰はどの経綸でも天的な民を造るのです。歴史全体を通して、信仰にはこの同じ効果がありました。天からではないもの、神からではないものの中に落ち込むことに対して、信仰は反撃します。信仰はそれに反撃し、反論し、否定し、それに対抗して働きます。信仰はあなたを堕落前にただちに連れ戻します。信仰は人の反逆、人の堕落を超越します。これがローマ書一章におけるパウロの議論です。信仰はあなたをどこかに連れ戻します。それは義認と呼ばれています。それはあなたを正しくし、あなたのために又あなたに対してすべてを正します。そして、それはまるであなたが一度も堕落しなかったかのように、あなたを「キリストの中」に置きます。信仰はそれらすべてに反撃します。人が堕落して罪を犯すやいなや、信仰を要求する命令が始まりました。信仰によってアベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、他の人々はみな、天的な人々になりました。神はそのように反応されました。ですから今や、この永遠の合一は、信仰を通して堕落を超越します。

(c)人の贖いによって強化された

永遠の合一は人の贖いによって強化されます。人が堕落した時、神は敗北されたわけではありませんでした。それにより神はただ、すでに考案していた保全措置・計画を発動されたにすぎませんでした。この点に関して、誤った教えを擁護しようとして酷いことが述べられてきました。堕落は神の御旨だった、と独断的に述べられるのを私は聞いたことがあります。神の御旨は恵みを示すために人が堕落することだったというのです。人は堕落しなければならなかったこと、神の計画によると恵みが示されるために人はそうすべきだったことを受け入れられるなら――それでよければ受け入れて下さい。私には受け入れられません。私の見解は、堕落は決して神の御旨でもみこころでもなかったというものです。むしろ逆だったでしょう。しかし、神は堕落を予見してそれに備えられました。そして堕落が生じた時、神は贖いという保全措置を発動されました。その措置は神がすでに考案しておられたものであり、世の基が据えられる前から屠られていた小羊でした――神はこれを発動されたのです。

緊急時に人のより優れた資質が現れるのと同じです。緊急時に、人々の資質がいかなるものなのかが分かります。そして時として、緊急事態によってそれまで思いもしなかったことが明らかになります。人の領域でこれがそうであるように、神の領域ではなおさらそうです。この緊急事態により神のとても素晴らしい何かが現わされました。恵みが現わされて、その時から二つの言葉が結び合わされました。その前は「主権」という一つの言葉だけでした。堕落後は「主権的恵み」になりました。それは恵みを通して働く主権であり、主権の召し使いである恵みです。堕落は神の御旨ではありませんでした。少なくとも、私はそう確信しています。しかし、神は常に緊急時にますます気高くなられますし、これまでずっとそうでした。私たちはこれを見い出しました。神の卓越性が私たちの緊急時に表されます。堕落に関してはそうでした。恵みが明らかになったのです。

おそらく、あなたはまだ議論の領域に入りたがっているかもしれません。もし人が堕落していなければ、私たちが何を失っていたはずなのかを見て下さい。私たちには恵みの気高さが決してわからなかったでしょう。あなたはこれにどう答えるつもりでしょう?一時の間、人の家族を見ることにしましょう。ここに父親と幼子がいます。父親に対する子供の愛を引き出すために、父親の愛による素晴らしい、恵み深い賜物と贈物をことごとく与えることが必要でしょうか?まったく必要ありません。幼子は父親を愛します。そして、理想的な場合、父親がその愛を勝ち取るためにあらゆる種類の恵みを施すまでもなく、幼子は父親を愛します。幼子が父親を愛するのは、本当に父親を愛しているからです。父親にとってこれに優るものはありません。これを神とその子らの領域に当てはめてみて下さい。もし私たちが前進し続けていたら、もし堕落が生じていなかったら、私たちは全き愛と献身的愛情の中を進み続けていたでしょう。それが御父の望みでした――よく聞いて下さい、神は常に私たちを、自分たちのために神がして下さることのゆえではなく、ただ神ご自身のゆえに神を愛するあの水準に至らせようとしておられます。これは最高の愛です。私たちはそこに到達していませんが、これが神が求めておられることです。この問題については十分述べたでしょうか?急いで終えなければなりません。

聖霊は永遠の御旨の管理者である

聖霊は永遠です。聖霊は御旨と関係しています。聖霊はキリストとの絆です。聖霊は嗣業の保証です。つまり、聖霊を受ける時、私たちはただちにキリストに結合されます。したがって、私たちはキリストに関する神の御旨にただちに結合されます。ですから、私たちは永遠とつながっており、時間を後にしたのです。これは大いに立派な論法ではないでしょうか?私たちは永遠とつながっています、なぜなら聖霊は永遠だからです。聖霊が来臨したのは、私たちの地上生涯のしばしのあいだ私たちと共に地上にとどまるためではありません。聖霊は一晩泊まって出て行く一時の客ではありません。聖霊の内なる臨在は、ただちに私たちを永遠に結び付けます。そしてこの永遠の中で、私たちを御子に関する神の永遠の御旨に結び付けます。そしてこの御旨の中で、私たちをすべてを支配する御子ご自身に結び付けます。そして御霊を受ける時、私たちはキリストの嗣業の保証、証拠、保証を受けます。これは素晴らしいです。これまで述べて来たこの点に私たちは立ち返ります。私たちは内住の御霊により、キリストのものとして、キリストに属するものとして確保されています。また、キリストは私たちのために永遠に確保されています。御霊は嗣業の保証です。これは選びに関するすべての問いに対する、神の感動的な答えです。あなたは御霊を受けたでしょうか?もし受けていないなら、いかなる問いに対する答えもありません。もし受けているなら、すべての問いに対する答えをあなたは持ちます。特にこの問いに対する答えを持ちます。キリストとの合一は私たちのすべての問いに対する答えです。

キリストとの合一は一つの転機、一つの明確な行為であり、ただちに一つの感覚を生じさせます――これがすべての事柄に対する答えです。私の疑問はすべて、私の頭ではなく心の中で答えを与えられます。納得・把握・理解しようと努めてきたすべての事柄に対して、内側で答えを得ます。そんな具合です。しかし、次のことに注意して下さい。聖霊を受けることによって、「御霊ご自身わたしたちの霊と共に、私たちが神の子であることを証しして下さいます。もし子であるなら、神の相続人であり、キリストと共同の相続人です」(ロマ八・一六、一七)という結果がただちに生じますが、他方、キリストとの合一によるクリスチャン生活の開始時にこれがそうである一方で、次のことに注意して下さい。すなわち、御霊の中にある御霊と共なる生活は、選びを証明する一つの絶え間ない過程・継続なのです。

おそらく、あなたはこれまでそう思ったことはなかったでしょう。真に聖霊と共に歩むとき、聖霊は私たちが考えたり意図したりしたことのない事柄の中に私たちを導いておられることに気づきます――しかし、聖霊がそうされる時、私たちはこう言わざるをえません、「これはたったいま生じたものではなく、神が仕組まれたことです。私はいまある計画の中に入ろうとしています。主はその計画全体を私に示してはおられませんが、この計画が一つ一つ進んで行きます」。これが使徒行伝の物語ではないでしょうか?聖霊には一つの計画があります。聖霊はそれを啓示しておられませんが、人々が御霊の中で行動するとき、すべては何と一枚のモザイク画のようであることか。何と素晴らしいことか!これは永遠の過去から定められていました。それを避けることはできません。神はそれに向かって働いておられ、私たちをそれに向けて保っておられます。「私たちは神の傑作であり、諸々の良い働きのために、キリスト・イエスの中で創造されました。神は、私たちが諸々の良い働きの中を歩むように、それらをあらかじめ備えてくださったのです」(エペ二・一〇)。

あなたの人生を振り返ってみて下さい。この働きにおける自分の役割に関して、あなたは様々な仕方で失望しているかもしれません。自分の側でしでかした多くの躓き、不注意、間違いを見ることができるかもしれません。「自分はこの仕事に適任ではなく、神は間違いを犯されたのだ」と時々感じてきたかもしれません。私たちの何人かはそう感じてきました。しかし、私たちに対する神の諸々の道をさらに深く覗き込んで、神の諸々の原則を見る時、そのすべての中に素晴らしい必然性があることがわかります。あなたも私もある事柄のために召され、ある事柄のために神によって捕らえられ、神によってある事柄の中に加えられました。私たちは「神は間違いを犯されました。私はこれに適任ではありません。私はこの中に加わるべきではありませんでした。私にはこのための資格がありません。私はまったく場違いです!」と感じます。しかしそれでも、何らかの方法で神はそうなさいます。神はあなたを力づけ、最後まで持ちこたえさせ、その働きを完成させられます。これにあなたは驚き、不思議がります。あなたが聖霊を握る時、それはなされます――つまり、もしあなたが自分自身の中に沈み込んで、自分の有り様のゆえに諦めて引き下がらなければです――しかし、聖霊を握るなら、あなたは切り抜けます。そして、自分が切り抜けたこと、主があなたを通して、私を通してこれをなさったことに、あなたは驚きます。

これは神の諸原則と大いに合致しており、何の矛盾もありません。それは神の極めて深い諸原則と全く合致しています。いかなる肉も神の御前で誇ることはできません。それはすべて神に帰します。神は――よく注意して下さい――「この世の愚かな者(中略)弱い者(中略)無に等しい者」(一コリ一・二七、二八)を選ばれたのです。「神は選ばれた」という同じ言葉が使われています。これはまったく首尾一貫しています。

確かに、神の道は見い出しがたいです。「神は神秘的な方法で活動し、不思議なわざを行われる」。しかし、諸原則に関して神は首尾一貫しておられます。御霊の中にある生活は、神は計画を行われつつあることを確証し続けます。ただ反逆、頑固さ、自惚れ、あらゆる種類の自己の命によってのみ、妨げられ、阻まれます。しかし御霊の中にある生活は、あなたがある事柄のために選ばれたことを絶えず示し続けます。神はあなたのことをたんなるその場しのぎで扱っておられるのではありません。完全に計画されているのです。諸々の良い働きがあらかじめ定められています。「私たちがそれらの中を歩むよう、あらかじめ備えられていた」のです。御霊の中を歩んでいるなら、あらかじめ備えられていた働きの中を歩んでいます。私たちがそれを理解していてもいなくても、それは事実です。しかしそれは明らかになります。見事に明らかになります。そして私たちはへりくだって、「主よ、異議を唱えたことをお赦し下さい。この問題について議論したことをお赦し下さい。自分の知性を高く上げたこと、あなたに逆らってこれについて考えたことをお赦し下さい。主よ、あなたは素晴らしいです」と言うことになります。そして、私たちは礼拝します。これが選びの証拠です。これより望ましい証拠はありません。それはすべてキリストの中にあり、聖霊によります。

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。