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土台のある都

T・オースティン-スパークス

第一章 導入的概論

聖書朗読:ヘブル十一・十、エゼキエル五・五

私たちの目的は次のことを理解することです。すなわち、エルサレムは神と大いに密接に関係しており、確かに神によって生み出されたものなので、その価値はもっぱら霊的・神聖なものであるにちがいないということです。その歴史の背後には、この世や時間に属するものからではない、天的・永遠である数々の要素があります。

シリアの地

特にこの都について考えるには、まずその地全体について見る必要があります。なぜなら、この都は主として、その地の諸々の特徴を凝縮したものだからです。ヘブル十一章から、土台のあるこの都は天のふるさとと密接な関係にあるため(十、十六節)、この都はこのふるさとを凝縮したものにほかならないことがわかります。これは、先に進む際、心に留めておくべき大事な点です。

この土地の諸々の関係のいくつかに注目することにします。

第一に、世界の他の部分に対するこの土地の関係です。シリアは人類にとって、霊的にも物質的にも、世界の他のどの国よりも重大な意味を持っていました。

その中心性はすぐにわかります。シリアはアジアとアフリカの間に、人類の太古の二つの生地、すなわち、ユーフラテス川とナイル川の流域の間にあります。また、帝国の二つの大きな中心である、西アジアとエジプトとの間にあります。一方の側は東洋の古代世界を代表し、他方の側は西洋の現代世界への通路である地中海沿岸世界を代表しています。

第二に、シリアとアラビアの間の関係がわかります。シリアはアラビア世界の北端にあります。アラビアはセム族の揺り籠でした。セム族は四つの方面に進出しました。(1)エチオピア方面、(2)スエズ海峡を経てエジプト方面、(3)アラビアの砂漠を通ってメソポタミア方面、(4)ヨルダン川を経て西シリア方面です。他のどの方面にもまして、これらのセム族はシリアに向かって移動しました。私たちは彼らが二つの特別な道でこの地に入ったことを知っています。すなわち、アブラハムの場合はメソポタミアから、イスラエル(ヘブル人)の場合はエジプトからです。

第三に、アジア、アフリカ、ヨーロッパに対するこの土地の関係です。ユーフラテス川からナイル川に至る世界最古の道に気づきます。その道はいまだに使われており(昔のラクダの隊商は自動車輸送に取って代わられましたが)、ダマスカス、ガリラヤ、イズレル平原を通って、パレスチナの海辺の平野に下り、ガザを通ってエジプトに至ります。

第四に、シリアと関わりを持った地の諸国民と諸民族です。これらに関する膨大な一覧があります。この土地は、これらすべての諸国民・諸民族の目的地か、実際の居住地か、戦場かのいずれかであり、大抵は居住地でした。ヒッタイト人は小アジアから南下し、エチオピア人はナイルを征服して北上しました。以下は侵略者の一覧です:ヒッタイト人、エチオピア人、スキタイ人、バビロニア人、ペルシャ人、イスラム侵略、トルコ人、モンゴル人、ギリシャ人、ローマ人、アラブ人、十字軍、ナポレオン、そして最後に大戦の同盟軍です。これらはみな、この小さな国に特別な関心を寄せていました。ですから、シリアはこの世界の歴史の中でとても重要な地位を占めていることは、大いに明らかです。

次に、この土地自身の一つか二つの詳細について注目することにします。この土地の長さは全体で約四百マイル、幅は八十から百マイルの間であり、西端は海、北端はタウルス山脈、東端と南端は砂漠です。「シリア」という名前は「アッシリア」を短縮したものです。この名前はもともと、ギリシャ人がコーカサス地方からレバーント地方にまで至るアッシリア帝国全体に対して用いたものです。その後、この帝国はユーフラテス川の西岸に縮小し、最終的に、すでに述べた現在の範囲にまで縮小しました。パレスチナはシリアの一部にすぎず、ギリシャ人はそれをユダヤを含むシリアの南部と定めました。

この国は数々の山岳地帯によって分けられており、一つの政府の下にまとまったことが決してないほどです。砂漠に対する三つの障壁があります。第一にヨルダン渓谷、第二に西方地帯、第三に東方地帯です。この土地に四本の線を引いて、異なる特徴を持つ地域に分けることができます。第一に海辺の平野、第二に西方地帯、第三にヨルダン川とヨルダン渓谷、第四に東方地帯があります。

さて、その歴史から分かる霊的教訓に注目することにします。

一.エルサレムの中心性

今述べたことから、この土地とエルサレムの都の地理的、歴史的――そしてこれからさらによく見ることになりますが――霊的中心性がわかります。この土地とこの都の地理的中心性について感銘を受けたければ、世界地図を持って来て、鉛筆でシリアを指すだけで十分です(メルカトル図法)。

この国の中心性は大いに印象的です。そして、地理的中心性に歴史的中心性を加えて、歴史全体を通して、いかに世界の諸国民がこの地点に引き寄せられ、それに関心を寄せ、何らかの形でシリアと関係してきたのかを見る時、これもまた印象的な点です。しかし地理的・歴史的中心性に宗教的中心性、いやむしろ霊的中心性を加えて、それは主として、神が何らかの形でこの中心点と関わっておられるためであることを見る時、その意義は遥か遠くまで及ぶものとなり、遥かに印象的なものとなります。確かに、これはたんなる天然的事柄ではありません。普通のことではありません。これには、シリアの地のたかだか数マイル、この地上の一部よりも広範に及ぶ諸問題について物語る何かがあります!それは一大円形競技場の舞台のようです。その場所で神は霊的意義を持つ一つの演劇を歴史の中で作成してこられたのであり、たんに時間や地に属するものではなく、永遠と天に属する事柄を世界に示してこられたのです。ですから、エルサレムは、まず第一に、中心性を物語っています。

その本体――新エルサレム

型である歴史的エルサレムから、その本体である黙示録等の霊的エルサレムに向かうと、その特徴は天のエルサレムすなわち教会に関する最初の点であることがわかります。例えば、新エルサレムについて述べられている二つの点を挙げることにしましょう。

第一に、諸国民はその明かりの中を歩み、彼らの栄光をその中に携えて来ます(黙二一・二四、二六)。新エルサレムはたんなる地理的なものではなく教会であることを心に留めると、教会は究極的には世界の他のすべての部分に対して中心的地位を占めるべきことがわかります。教会は、それに関係する周辺のすべての諸国民に対して、この地位を占めます。歴史的エルサレムが地理的・歴史的にこの中心的地位を占めているのと全く同じように、霊的な形で教会は究極的に神の宇宙の中で中心的地位を占めることになります。そして、すべてがそこから発するように、それに向かうことになります。それが中心となり、諸国民や王たちはそこから行き来します。この世界のすべての国々は、教会を宇宙的首都として認識するようになります。

第二に、新エルサレムの四方には三つの門があり(黙二一・十三)、「都は正方形である」(十六節)と述べられています。「四」は被造物、全被造物の数です。全被造物をこの都は代表しています。この都の四つの面の各々に、三つの門があります。これはどの方向も平等であることを意味します。もしこの都が世界の一つの側だけに対するものとして示されていたなら、その背面に三つの門は必要なかったでしょう。その門は他の三つの方向に面していたでしょう。しかし、三つの門がそのすべての面に平等に存在する以上、これは確かに、これらの門の前にあるものはすべて平等であることを意味します。すべてが教会の中心性を物語っています。

それが意味するところはみな、これから可視化・実現されなければなりません。しかし、私たちが望んでいるのは、第一にこの都を据えることであり、御旨によると教会の所在や地位はいかなるものなのかを見ることです。そしてこれを認識する時、私たちは教会を滅ぼすための多くの面にわたる敵の活動を理解できるようになります。反対、戦い、紛争、包囲攻撃、襲撃に満ちたエルサレムの歴史のあの面を理解できるようになります。エルサレムには何と途方もない歴史があることか!詩篇作者が「エルサレムの平和のために祈れ」と私たちを促しているのももっともです。エルサレムのためにこのように祈るべきもっともな理由があります。なぜなら、エルサレムはこの地上の他のどの場所よりも艱難を経験してきたからです。

これは示唆と意義に富んでおり、それ自身の霊的意義を伝えます。教会には何という歴史があることでしょう!真に霊的な神の民には、何という争いの歴史があることでしょう!主が真にご自身のものである者たちに向かって、「この世ではあなたたちには艱難があります……」(ヨハ十六・三三)と仰せられたのももっともです。彼の教会に必要不可欠な一部分として、キリストとの生き生きとした関係の中に実際に入ることは、すべての時代にわたる争いの中に、絶え間ない戦いの領域の中に入ることを意味します。しかし、それには一つの理由があります。至極もっともな理由があります。なぜなら、ひとたびエルサレムが据えられ、天から出て神から下り、しかるべき宇宙の中心の場所に据えられる時、他のいかなる勢力もエルサレムに立ち向かえなくなるからです。この教会は、来るべきすべての時代にわたって、キリストにあって中心的な至高の地位を占めるよう定められています。多くの面にわたる少なからぬ敵の活動は、偽物の教会、まがい物の教会、偽りの教会を設けようとするものでした。

先に進むにつれて、これについてさらに述べることになるでしょうが、私たちは私たちの第一原理を据えて、「上なるエルサレム」に対する神の御思いに関して、その最初の特徴について見ました。

その第二の特徴に移ることにします。

二.エルサレムの天的性質

エルサレムに対する神の関係について私たちが知っている、最初の幾つかの動きに戻ることにします。これらの動きはアブラハムと共に始まりました。アブラハムは神の都の父祖だった、と言えるように感じます。御言葉は彼について、「彼は都を探していた」と述べています。どういうわけか(どうしてかは記されていません)彼は神と関係している都を探すようになりました。この都について神が彼に語られたことを私たちに告げるものは何もありません。しかし、ここで「彼は都を探していました(中略)その建造者・建設者は神です」(ヘブ十一・十)と明確に述べられています。どういうわけか彼は神と関係している都――神がその都の設計者(これが文字どおりの言葉だからです)であり建設者でした――を探すようになりました。これは、この都の形や特徴は神に由来するものになることを確かに意味します。神が設計者であり建設者である以上、建設・設計されるものの性格は神に由来するものになります。こうしてアブラハムは、神の御思いと御旨の表現であるもの、神の活動の結果であるもの、すなわち都を求めました。

この都に向かう最初の一歩は何だったのでしょう?一人の人が私たちに教えてくれます。その人は聖霊に満たされていたステパノです。「栄光の神が私たちの父祖アブラハムに現れました」(使七・二)。これが、神の御思いの表現となるべきこの都に関する最初の一歩でした。その時以降、この世の中にあるけれどもその外にあるものとしてのエルサレムと、神は常に関わってこられました。堕落以降、栄光の神はこの地上のものにご自身を全く結びつけることはなさいません。彼はあるものを取り上げて、それを別の何か――それはこの地上からのものでは全くありません――の絵図とされました。そして、栄光の神がアブラハムに現れた時以降、神は常に、これまでずっと、この世の中にあるけれどもその外にあるものとしてのエルサレムと関わってこられました。私たちはこれを強調したいと思います。すなわち、エルサレムに対する神の関係はこれまでこの面に基づいていたのです。つまり、「この世の中にあるけれどもその外にある」という神の御思いにエルサレムが従っている間だけ、神はエルサレムと関わりを持たれたのです。エルサレムがこの原理を保つことに失敗して、この世と関わるようになった時、神はエルサレムを放棄されました。「この世の中にあるけれどもその外にある」という条件が満たされた時だけ、神はエルサレムと関係を持たれました。これは積極的・消極的に大いに明らかにされています。積極的には、エルサレムが天の都に関する神の御思いを表現して、この世からの分離を保った時、神はエルサレムと関わりを持たれました。消極的には、エルサレムがこの神の御思いを表現することに失敗した時、あるいはやめた時はいつでも、神は退かれました。ですから、この比較から、神の御心が何だったのかがわかります。破壊され、苦しみを受け、捨てられた、エルサレムのこの暗い歴史は、「この地上にあるけれども全く天的である」という御思いを表現しない何ものとも神は関わりを持たないことの、とても強力な証拠です。そのようなものを神は支持することも、維持することもなさいません。これは私たちの黙想でとても重要な点です。

アブラハムの人生の特徴

再びアブラハムに戻ることにすると、アブラハムはこの都の包括的型だったことがわかります。これを徹底的に追及するために、私たちは天的性質というこの原理を取り上げて、アブラハムの人生の天的特徴を追うことにします。アブラハムはこの都の父祖なので、彼はこの都に対する神の御思いにしたがって霊的に構成されています。そうである以上、この都の諸々の特徴がアブラハムの人生に一貫して流れているのが見えるはずです。そして、天的性質というこの特徴を、アブラハムの人生の中に辿るのは難しくありません。その八つの面を辿ることにします。

一.天的ビジョン

「栄光の神が私たちの父祖アブラハムに現れました」(使七・二)。これは天的ビジョンです。新約聖書なら、それを神の啓示、神の自己啓示と呼ぶこともできたでしょう。教会とは何でしょう?それは神が啓示される所であり、天的ビジョンの場です。教会は、キリストにおける神の啓示の化身です。教会は、そこで男たちや女たちが神を知るようになる領域、神を知る知識がますます成長する領域でなければなりません。教会は慣習を執り行い、形式を維持するだけのものではありません。教会は神の生き生きとした啓示が宿る所です。そして、教会であると主張するものが、神の生き生きとした啓示の場でなくなるやいなや、それは神が「教会」と称されるものではなくなります。そして、それがこれらの神聖な特徴を失う時、神は退いてしまわれます。それは前進するかもしれませんが、神は退いてしまわれます。エルサレムが諸国民に対する啓示の場ではなくなった時、神は退かれました。教会の目的は、神の御心によると、神の永続的・継続的啓示の領域であることです。栄光の神の出現の領域であることです。(黙示録の最初の三つの章を見てください。)

この教会に属すること、この教会を知ることは素晴らしいことです。神がご自身を示し、ご自身を知らせる場所、継続的に何度も何度も栄光の神が出現される場所にいることがどういうことか、私たちは知っているでしょうか?あなたが所属している地元の会衆では、毎週、栄光の神が出現しておられる、とあなたは言えるでしょうか?しばしば私たちの心は、主がご自身を私たちに示してくださっているのを実感して温められます。アブラハムの人生の基礎だったこの特徴は、地と天の両方のエルサレムの基礎でもあります。それが教会の支配的法則です。

二.地からの分離

天からの啓示のゆえに、その結果必然的に地から分離されます。「アブラハムがカルデアのウルにいた時、栄光の神が彼に現れました」。その結果は何だったでしょう?「あなたの国、あなたの親族から離れなさい……」(創十二・一)。そして彼は出て行きました。どこからでしょう?彼の世界、彼の生来の世界、彼の元の世界、天然の世界全体、天然的出生の世界、天然的関係の世界、天然的興味の世界です。彼は出て行きました。すべてが新しくならなければなりませんでした。それは分離でした。

エルサレムの長きにわたる諸世紀の間ずっと、これはそうでした。もう一度「エルサレム」という言葉と共に御言葉を読み通して、神がいかにエルサレムに対して「清くあれ、分離されよ、聖であれ、周囲の国々と関係を持ってはならない、諸国民のただ中で神のために立て」と絶えず訴えておられるのかを見てください。エルサレムの恐るべき悲劇――次々と預言者がすすり泣きつつ告げる悲劇――は、失われた分離という悲劇です。

これが教会の悲劇です。まさに教会史の悲劇から、神の御思いがわかります。ご自身の民に対する神の御思いを破るなら、必ず悲劇的結果になります。教会が大いに理解する必要があるのは、世からの徹底的分離を要求するその天的関係です。それは神が心からそれと関係を持てるようになるためです。

三.天の市民権

「なぜなら彼は土台のある都を探していたからです。その建造者(設計者)・建設者は神です」(ヘブ十一・十)。彼はそれをどこに見つけたのでしょう?この地上には全く見つからなかったのです!ヘブル十一章に向かうと、アブラハムが遥か遠くのものを見て、それを歓迎したことがわかります。主イエスは「……アブラハムはわたしの日を見て喜びました……」(ヨハ八・五六)と仰せられました。彼は信仰によって見ました。「信仰によってアブラハムは、召された時、従って(中略)出て行きました……」(ヘブ十一・八)。「これらの人々はみな、受けませんでしたが、信仰の中で亡くなりました……」(十三節)。彼の市民権はこの地の市民権では全くなく、天の市民権でした。新約聖書はこれを完全に明らかにしています。アブラハムの真の子孫は(ユダヤ国民ではなく)「私たち全員の母である」(ガラ四・二六)上なるエルサレムと結ばれている信者たちです。こうパウロは述べています。ですから使徒はまた言います、「私たちの市民権は天にあるからです。そこから救い主が来られるのを、私たちは待っているのです」(ピリ三・二〇)。

四.寄留者であり旅人である

それと密接に関係し、対応していることですが、その土地のアブラハムは寄留者・旅人として幕屋の中に住み、その地に何の分け前も持たず、その土地では旅人だった、と告げられています。これは天的性質の特徴ではないでしょうか?ここでは寄留者であり旅人です。しかし、それでは私たちはどこに属しているのでしょう?ペテロは彼の手紙を書くときこう述べています、「愛する者たちよ、私は旅人であり寄留者であるあなたたちにお願いします……」(一ペテ二・十一)。天の国に属しており、天の市民権を持っているのです。

五.地的庇護や報いを拒むこと

この世からの庇護や報いは、アブラハムには何もありませんでした。彼は正しい諸原則のために尽力したかもしれませんし、そうすることによってこの世の人々に益をもたらしたかもしれませんが(この地上の主の民の霊的奉仕がこの世に対して、この不敬虔な世に対してすら、何らかの益を及ぼしたことに、異を唱える人がいるでしょうか?その中に主の民がいなければこの世がどうなっていたかは、主だけがご存じです)、アブラハムは彼の活動から益を受けたこの世の人々や、ソドムとゴモラの町の人々に対して、彼らが何らかの報いを与えて彼を庇護しようとした時、「結構です」と言いました。アブラハムは依然として外に立っていたのです。

この地上の神の民の奉仕を利用すること、彼らに感謝、称号、地位を送ること、彼らをこの地上の人々の間で重要なものにすることが、これまで悪魔が仕掛けてきた最も深刻な罠の一つでした。これらの昇進が行われ、これらの贈物が与えられ、この感謝が送られ、これらの地位が与えられる時、往々にして、深遠な霊的重要性が失われ、その生活の実際の霊的価値は終わりを告げることがわかります。多くの真に価値ある神の僕の悲劇は――彼らは霊的な方法で神によって力強く用いられましたが、その霊的価値を失い、その特徴を失ったまま人生を終えました――何らかの形で彼らが感謝・受容されるようになり、この世からの感謝と恩恵と報いを受け取ったせいでした。天的性質と分離を維持することが、霊的価値を維持するのに必要不可欠です。

六.天然的な能力や力を拒むこと

アブラハムはとても厳しい学校でこの学課を学ばなければなりませんでした。彼が落胆して、天然的な方法・手段・行程で神の御旨を実現しようとした時、彼の人生は恐るべきあざや傷によって損なわれました。今日のこの世はきわめて恐ろしい形でこの傷を抱えています。イスラム教を見なさい、イシマエルを見なさい。そうするなら、アブラハムが天然的な線に沿って神の御旨を実現しようとした時に犯した、あの致命的間違いの成熟した姿を見るでしょう。天的な民はそんなことをしません。天的な教会はそんなことをしません。教会はそうしようとしてきました。世的な手段によって、天然的な能力や力によって、自分の神聖な使命を果たそうとしてきました。その悲劇は明らかです。その弱点はだれの目にも明らかです。天的なものには、天然の能力や力は決して許されません。

七.天然的成果にすぎないものを神は受け入れない

私の念頭にあるのはイサクです。イサクがついに生まれました。サラを通して生まれました。イサクは神の介入により、天的力を通して生まれましたが、彼の中には地的絆があります。しかし、神はその地的絆を断ち切り、天のものと地のものとをすっぱり切り分け、イサクを死に渡されます。神以外、誰が死人をよみがえらせることができるでしょう?ですから、神だけが死人をよみがえらせることができることを見るとき、死者の中からよみがえらされたものは全く神のものであることがわかります。このように神は決して地とのつながりを持たれません。たとえご自身のためのものだったとしてもです。

非常に多くの場合、神はご自身の何らかの天的御旨を人の心の内に生じさせられます。神の御旨を男や女の心の中に生じさせられます。時の流れの中で、その男や女はその天的ビジョンを受け取り、何らかの形でそれが彼らのビジョンとなります。神のためのビジョンなのですが、そうです、彼らのビジョンになるのです!主からの天的ビジョンを持っている人々――彼らはこのビジョンを保持しています――に干渉するのは恐ろしいことです。往々にして、彼らは対応するのがきわめて難しい頑固な人々になります。確かに、彼らは主からのビジョンを持っており、主から召されたという感覚を持っており、主のためにそれを保持しています。それは至極結構なのですが、彼らがそれを握っており、彼らがそれを確保しています。それは彼らのものなのです。しばしば神は、ご自身に由来するものをきっぱりと死に渡さなければなりません。それは去らなければなりません。彼らにはビジョンが全くなかったかのようです。さらに悪いことに、彼らは混乱に陥り、全く狼狽してしまいます。神はビジョンを与えられましたが、今やそれはみな木端微塵です。神は召しと御旨を与えられましたが、今やすべてがそれを否定し、それはすべてなくなってしまいます。神はご自身のものを人に保持させたり、人に握らせたりなさいません。

おそらくアブラハムが迎えた危機は、彼が奇跡によってイサクを得たものの、イサクを自分のもの、慕わしいものとすること、イサクを自分自身のものとすることでした。神は事実上こう仰せられました、「そうではありません、アブラハムよ、神聖な事柄の中に地的な関係があってはなりません!この事は全くわたしからであって、あなたからではありません!」。神の偉大な御旨を何らかの人間的手段の範囲内に制限することはとても容易です。おそらく、世界宣教について大いに案じているのかもしれませんが、自分たちの宣教団を通してでなければなければならないのです!これは神の諸々の御旨を牛耳って、それらを私有財産化することです。もしそれが神の完全な御旨を実現するものであり、神がそれにご自身を全くお委ねになるつもりの場合、神はそんなことを許されません。

八.天には人の手のための余地はない

天からのものの中に、人からのものの余地や影響や権限は決してあってはなりません。私の念頭にあるのはマクペラの墓のことです。サラが亡くなった時、その国の中で良い立場にあったアブラハムが、自分の妻のために、自分自身と自分の子孫のために埋葬場所を求めたことを、あなたは覚えておられるでしょう。その結果、マクペラの洞窟が格好の場所であることがわかりました。彼はそれを購入しようと申し出ましたが、それを所有している人々は「ただでそれを差し上げましょう」と申し出ました。彼らはそれを贈物として受け取るよう彼に懇願する寸前のところまで行きました。しかし、彼はそれを安く手に入れようとせず、全額を見積もってもらって額面どおり購入しようとしました。それは「あなたはそれを安値で手に入れました。実際のところ、あなたは私たちに借りがあります。あなたは実際には私たちに債務を負っており、私たちには実際のところあなたに対する請求権があります!」とだれも言えなくなるためでした。いいえ!最後の一円に至るまで、彼は額面どおりそれを買います。人のいかなる手も要求することはできません。この世の何人も「アブラハムとその子孫たちは自分たちに返済義務を負っている」と言うことはできません。

この原則が働いているのがわかるでしょうか?教会の中に、人の手やこの世からの権利があってはなりません!上なるエルサレムは自由です。自由なのです!そこではこの世には何の請求権もありません。そこに権利を有する他の勢力は何もありません。教会は神の中で自由です。しかし、ああ、今日の複雑さを見てください。義務を見てください。教会がどのように自分をこの世に売り渡し、この世がどのようにそれを握っているのかを見てください。この世は「あなたは私たちに対する義務の下にあります!」と言っていますが、それは至極もっともなことです。それは神の御思いにかなう教会ではありません。

これらはみな、天的性質という一つの偉大な真理の諸々の面です。

私たちの時代に必要なのは、主の民が天的性質の意味に関する霊的理解に達することです。そうするときはじめて、教会、主の民は力を知ることができます。霊的力というこの問題は天的性質と密接に関係していると、私は確信しています。主イエスは良き地であり、この御方の存在中のすべての本質的要素が、都によって表されている教会の中に集約されなければなりません。この主イエスは「この世の君が来ますが、彼はわたしの中に何も持っていません」(ヨハ十四・三〇)と仰せられました。何という力ある地位!何という勝利の地位!何と優位な地位!考えてみてください!「この世の君が来ます」――持てるものすべてを携えてやって来ます(その両手には途方もない量があり、途方もない力があります)――「来ますが、彼はわたしの中に何も持っていません」(ヨハ十四・三〇)。「今この世の君は追い出されます」(ヨハ十二・三一)。この二つの事柄は同行します。主の民はこの立場に立っていないので、彼らはこの世の君を追い出すことができず、征服することができないのです。彼は主の民のただ中で絶大な力を持っています。それは彼には根拠があるからです。その根拠とはこの世です。根拠がなければ、権利もありません!これは途方もないことです。ああ、神がそこに一つの民を獲得されますように。

聞いてください。「上なるエルサレムは自由であり、それは私たち全員の母です」(ガラ四・二六)。「また大いなるしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下にしていた(中略)すると見よ、大きな赤い龍がいて(中略)その龍は女の前に立った(中略)女の子供を食い尽くすためだった……」(黙十二・一~四)。エルサレムは私たちの母です。上なる教会は私たちの母です。しかし、ここではこの教会から、この母から男の子が生み出されます。そして、大きな赤い龍が食い尽くすために待ち構えています。そして、この男の子は御座に携え挙げられます。これは何でしょう?これは一般的な教会から出たものであり、特に勝利の力を持っています。これが御座に行きます。

主は教会全体の中から少なくとも一つの群れを得ようとしておられます。その群れは全く完全に天的性質を帯びており、統治・支配します。それは敵が投げ落とされて、もはや天に居場所がなくなるためです。

「天的性質の意味を私たちに教えてください」と主に求めようではありませんか。御旨が実現するにはこれがとても重要です。

ただで受けたものはただで与えるべきであり、営利目的で販売してはならない、また、自分のメッセージは一字一句、そのまま転載して欲しいというセオドア・オースティン-スパークスの希望に基づいて、これらの著作物を他の人たちと共有する場合は、著者の考えを尊重して、必ず無償で配布していただき、内容を変更することなく、いっさい料金を受け取ることをせず、また、必ずこの声明も含めてくださるようお願いします。