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人とは何者か?

T・オースティン-スパークス

第二章 今や神が造られたのとは異なる種である人

上の表題に少し驚かれるかもしれませんが、私たちが性質上最も深刻な問題を扱っていることを早い段階で認識するのはよいことでしょう。これは、「ある時点で人は正道から逸れて道を誤ってしまった」「人は過失者、違反者になってしまった」ということだけではありません。「人は罪人、罪深い被造物にすらなってしまった」ということだけでもありません。これはみなそうかもしれませんが、真理全体ではありません。人は誤った道の上にあり、方向転換させられる必要性、正しい道の上に置かれる必要性があるだけではありません。人は邪悪な雰囲気の犠牲者、律法からの逃亡者であるだけではありませんし、逃げ出して若気の至りで放蕩し、よりよい自己から逸らされてしまっただけでもありません。人が神に回復されること、神によって定められた召命と運命に回復されることは、人の関心と力を一つの方向――自己、罪、この世――から別の方向――神、善、天――に移すことだけではありません。キリストは放蕩息子について話す時、「彼がわれにかえった時」という言葉を使われました。彼が意味されたのは、「放蕩息子は奮い立って別の道に戻った」ということだけではありませんでした。聖書の中には、「救いはそのようなことより遙かに根本的である」ということを示す証拠が山ほどあります。

福音伝道の多大な努力の致命的欠点がここにあります。大会の奉仕ですら、そうなのです。明け渡し、献身、服従といった言葉や用語が、まるで一番初期の段階以上のものを意味するかのように用いられています。それらは取るべき姿勢を示しているにすぎません。「古い人」を神にささげることを、神は望んでおられませんし、聖書も教えていません。「古い人」は十字架につけられなければならず、ささげられてはならないのです!若者たちは彼らの才能、力、能力、熱意を主にささげるよう、たびたび次のような勧めを受けます。

「若く、強く、自由
自分のなりうる最善の者になるために、
神のために、義のために……」

しかし、やがて彼らは致命的な欠陥や力不足に気づき、挫折します。その最大の証拠は、大会運動そのものです。この運動は常に成長しており、毎年、世界の至る所で、勝利のない生活や効力のない奉仕という問題への答えを得ることを求める、数十万の打ちひしがれたクリスチャンたちが見つかります。大会の働きに関わっている私たちは、この大群衆に微笑みを向けることはできません。また、「これは胸の張り裂けるような最大の悲劇である」と宣言するかわりに、彼らがあたかも大きな成功であるかのように、彼らについて話すこともできません。与えられるメッセージが大会の目的を示しているとするなら、いま述べたことには疑いの余地がありません。*

* もちろん、クリスチャンの大会には幸いな交わりという別の面があることは理解しています。しかし、ここで述べているのは、このような大会の当初の目的、なおも宣伝されている目的についてです。
初めに戻って人に何が起きたのかを見る前に、心に留めておくべき一つの点があります。「神聖な真理に関する事柄は、孤立した主題として単独で取り上げてはならず、その範囲や関連性を完全に認識しなければならない」という点は常に重要です。真理は一つのまとまりです。聖書の中には「truths」というような真理の複数形はありません。唯一の真理の複数の面があるのです。真理の各面とも、単独で立つことはできません。真理の各面の始まり、登場、究極的結果に注意することが必要です。

次に、「聖書の真理は漸進的である」ことをよく覚えておかなければなりません。最初の方では、物事は完全かつ正確に述べられているわけではなく、暗示の形で多く述べられています。最後に向かって進み続ける時だけ、私たちはいっそう完全な記述を持ちます。その光の中で、それに先立つすべてのことを考慮しなければなりません。たとえば、神の三位一体の教理をあげましょう。キリストの時が来るまで、これはヨハネによる福音書の中に記されているように(一四~一六章)はっきりと完全には啓示されませんでした。また、聖霊が降臨するまで、これは経験的に知られていませんでした。私たちの前にある主題についても同じです。霊と魂と体という人の性質あるいは成り立ちは、新約に来なければこのようにはっきりとは述べられていません。しかし、もっとずっと早い時点で、このようなことを述べている断片的記述がしばしばあるだけでなく、多くの暗示もあります。この遅れを説明することが、まさに私たちの主題の一部です。なぜならそれは、「内住する実際としての聖霊の時代が――その意味する一切のものと共に――到来するまで、人は神に属する事柄を適切な方法、生きた方法で知ることはできない」ということを意味するからです。ですから、聖書を学びのための教科書や手引き書のようなものにすることは無益です。そこで私たちは今、私たちの前にある新約聖書の完全な啓示と共に、最初にさかのぼることができます。

創造され、構成された人

照らされた目で人なるキリスト・イエスを真に見る時、そして、新約聖書では神の子供が実際いかなる者なのかを見る時、私たちは二つのことを見ます。一つは、「神の人は元々いかなる者なのか」ということであり、それから、「人が真に新しく生まれる時、どのような根本的変化があるのか」ということです。人の構成に関しては、人が霊、魂、体であったこと、そして今もそうであることがわかります。しかし、こう述べることは、この問題の半面にすぎません。それは人の構成要素に関する事実です。他の半面は、「これは順序と機能を示す」ということです。この順序を覆したため、機能は致命的影響を受け、人は神が予定していたのとは違う者になってしまったのです。

私たちはすでに、人の霊の機能が何かを一言で述べました。しかし、さらに述べる必要があります。

人の霊の機能

主たる事実は「神は霊である」(ヨハネによる福音書四章二四節)ということです。次に、ある特定の事柄が続きます。「私たちはその子孫です」(使徒の働き一七章二八~二九節)。彼は「私たちの霊の父です」(ヘブル人への手紙一二章九節)。

「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」(ヨハネによる福音書三章六節)ということが一定の法則である以上、人が神の子孫であるのはただ霊においてのみです。父としての身分は子孫を前提とします。子孫がなければ父としての身分はありません。神は霊です。神は父でもあります。不変的遺伝の法則により、霊的子孫には霊の祖先が必要です。しかし、父として――創造者とは違います――神は私たちの霊に対してのみ父なのです。

神は魂ではありません。魂の機能を扱う時、これをもっとよく見ることにします。ですから、神は私たちの魂の父ではありません。神は体ではありません。ですから、私たちの体は神から生まれたのではなく、創造されたのです。神の御言葉は、「霊だけが霊を知ることができる」ことをはっきりと強調しています(コリント人への第一の手紙二章九~一一節)。キリストの弟子たちが生ける真実な方法で彼を真に知っていたわけではなかったのは、これが理由です。彼らの内に何かが起きて、聖霊がご自身を彼らの霊と結合されるまではそうだったのです。これは常にそうです。

霊だけが霊を礼拝することができます(ヨハネによる福音書四章二三~二四節、ピリピ人への手紙三章三節)。この前者の御言葉では、「真の」「真実」という言葉がとても特徴的です。もし魂が――心理学者たちが正しく教えているように――理性、意志、感情の領域だとするなら、ユダヤ人やサマリヤ人の礼拝はきっとこれらのものを欠いていなかったでしょう。「動物的な感情や感覚すらないほど、機械的で無意味だった」と言ってもいいのではないでしょうか?しかし、感情、理性、意志がすべてそろっていたとしても、それはキリストが「真の」という言葉で意味されたものとは依然として別のものだったでしょう。なぜなら、依然として魂は魂であり、霊は霊だからです!霊だけが霊に仕えることができます(ローマ人への手紙一章九節、七章六節、七章一一節)。霊だけが霊なる方である神から啓示を受けることができます(黙示録一章一〇節、コリント人への第一の手紙二章一〇節)。私たちは後でこの点に戻ってきます。次のことを理解しましょう。神は、人と交渉を持ち、人を通して御旨を成就する時、それを人の内にあるご自身の似姿である霊によってのみ行うことを決定されました。しかし、このような神の御旨のために、人のこの霊は彼ご自身との生ける結合の内に保たれなければなりません。そして、一瞬たりとも神聖な合一の法則を破ってはなりません。独立したものとして分を越えて、自分の魂あるいは自己意識の命――理性、願望、意志――に諮ったり、それによって影響されてはならないのです。

これが私たちの主の誘惑の核心であり、アダムの誘惑の核心です。アダムのときにこれが起きた時、死が入り込みました。死の性質は、この語の聖書的意味によると、神との霊的結合からの分離です。これは「人はもはや霊を持たなかった」という意味ではなく、「霊の主導権が魂に渡ってしまった」ということです。(これは霊の人に関する新約聖書のすべての教えによって証明されます。たとえば、コリント人への第一の手紙二章一一~一六節。)

アダムの誘惑の性質

誘惑の核心が何だったのかを短く述べることにしましょう。人は、霊における神との合一によって、すべてを持つようにされました。これは神との関係においてであり、神に依存することによってでした。人の知識や力は本質的に霊的でなければならず、人生の絶対的な主権と頭首権は神のものであり続けなければなりませんでした。霊の関係、霊の器官と機能がこれを可能にしたのです。

誘惑は、すべてを自分自身で持つことでした。「それは可能であり、人は自分で決定し、自分で所有する、自分一人で十分な独立した者になれる」という提案がなされました。この狙いを成し遂げるのに、人の内の霊に訴えても無駄だったでしょう。なぜならそれは、この問題が神に委ねられることにほかならなかったからです。ですから、自己意識の器官に接触しなければなりません。こうして、理性、願望、意志――魂の諸機能――が攻撃を受けたのです。人は神をもたらすことを自分の霊に許す代わりに、独立して行動しました。そして、想像しうる最も恐ろしい結末を迎えたのです。

第一に、人に関する神の絶対的な頭首権と主権が排除されました。そして、耳を傾けるべき相手として、サタンに神の地位が与えられました。このこと、すなわち、「この世の神」となることが、なにものにもましてサタンが欲していたことでした。

次に、人の霊はひどく踏みにじられたため、自身と神との絆ではなくなりました。神との交わりは常に霊的ですが、これが破られたのです。霊は沈み込んで人の魂に従属するものとなりました。この人に関する限り、彼は神に対して死にました。「違反と罪を通して死んでいた……」(エペソ人への手紙二章一節)。こうして魂が霊を支配するようになりました。

また次に――これではまだ飽き足りないかのように――人は霊的姦淫の行為により、神に嫁ぐべき花嫁たるあの霊を用いて、サタンの要素を内に入れてしまいました。このサタンの要素は魂とは別のものですが――堕落以降――ほとんど魂の一部であるため、再生されていない人においては、神はそれらを一つと見なしておられます。これが新約聖書中の「肉的」「肉の」という言葉の意味です。このように、人は神が意図されたのとは全く別の種類、種になってしまったことがわかります。おもな違いは、「今や人は霊の人ではなく、全く魂の人である」ということです。

この被造物が今やまったく魂的であることを見るのに、あまり理解力は必要ありません。この世を運営している体系はすべて魂的です。すべては、願い、感情、感覚、理性、議論、意志、選択、決断に基づいています。魂の活動の様々な形態が、何と大きな場所を占めていることでしょう!一つの方向として、恐れ、悲しみ、憐れみ、好奇心、プライド、喜び、尊敬、恥、驚き、愛情、後悔、呵責、興奮などがあります。別の方向として、想像、理解、空想、疑い、内省、迷信、分析、理屈、探求などがあります。三番目の方向として、所有、知識、力、影響力、地位、賞賛、社交、自由などへの欲求があります。さらに他の方向として、決断、信頼、勇気、独立、忍耐、衝動、気まぐれ、優柔不断、強情さなどがあります。「これはみな間違っている」と言っているのではありません。そうではなく、「魂の命の形態であるこうしたあらゆるものから、私たちは自分がほぼ完全に魂の世界である世の中に生きていることがわかる」と言っているのです。しかし、それだけではありません。福音に関する最初の段階からクリスチャン活動全般にわたって、これがどれだけクリスチャン生活や奉仕の中にあるのかを考えてごらんなさい。ですから、この主題を追求して、「これらのもの――人の理性、感情、意志の総計――は、自分自身や他の人々の救いのために用いられるかもしれないが、全く無益であって全然役に立たない」という一大証明を行う時、忍耐してくださるようお願いします。

多くの人々は強力な議論――理屈、知性や感情への訴え――に説き伏せられて、何らかの決断を下したり、何らかの行動を起こしました。それで、自分をクリスチャンと見なすようになりましたし、他の人々からもそう見なされるようになりました。同じように大規模な宣教集会でも、その雰囲気、その物語や訴えによって、多くの人が「自分は神から奉仕への召しを受けた」と信じるようになりました。しかし、その大部分は霊からではなく、人の魂の力から生じていたことがやがて証明されました。「そのような時、神は決して御言葉を通して訪れることはないし、御言葉を用いることもされない」とは言いません。しかし、私たちは悲劇的事実を説明し、広く行き渡っている誤謬を正さなければならないのです。

人の魂は複雑で危険なものであり、並外れたことを行えます。後で見るように、それは私たちを完全に誤らせることができ、私たちを何度も欺くことができます。人は今や崩壊して混乱している被造物です。人を含む被造物はこの混乱のせいで虚無に服していることを、私たちは思い出さなければなりません。つまり、当初定められていた目標を実現することも、その完全な成就に至ることも不可能になっているのです。再生されていない人にとって、人生はまったく茶番です。なぜなら、定められた目的に決して到達できないからです。これが、独立して自分ですべてを得ようとする試みに対する神の答えです(ローマ人への手紙八章一九~二三節)。

これまで述べてきたことから生じるある疑問があります。一つは、アダムが陥った試練の特定の点と関係しています。もう一つは、創造の方程式に関してです。三番目は、魂のあるべき地位についてです。四番目は、現代の心理学に関して生じます。

アダムの試練

創造された時、アダムは罪がなく純真でした。神は彼が完全になるよう定められましたが、創造された時はまだそのように完全ではありませんでした。これを理解することが重要です。彼が神の御旨に完全に到達するには、彼の性質と目標の中に何かが加えられなければなりませんでした。人の霊を通しての神とのつながりには、一体化への潜在性や可能性はありましたが、絶対的かつ決定的な一体性はありませんでした。ですから、彼は戒めや命令という道筋に沿って神に従わなければならなかったのです――それは子として以上に、僕としての地位においてでした。あるいは、新約聖書における「子供(child)」と「子(son)」の区別を用いると、「この違いは生まれた者と成熟に達した者との間の相違である」と言えます。アダムの場合、子供から子へ、外的統治から内的統治へ、不完全さから完全さへ、この地位を飛躍的に向上させたであろうものは、信仰の従順による永遠のいのちだったのです。

ですから、ここにいのちの木の完全な意義があります。あの木は、いのちであるキリストによって現される神の象徴だったのです。人が定められた目標に到達して、神のいのちと性質にあずかるようにさえなるのは、ただこれによります。アダムは不信仰と不従順のせいで永遠のいのちに至りませんでした。ですからあのいのちは、主イエス・キリストを信じる人々、そうしてキリストの中にあるだけでなく、キリストを自分の内に持つ人々のために取っておかれているのです。「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ人への手紙一章二七節)。永遠のいのちの中に、人によって、また人を通して成就される永遠の御旨に関する神の秘密がすべて見いだされます。

次に、永遠のいのちは賜物であることを心に留めなければなりません。これをここで述べる特別な理由は、もう一つの誤謬を対処するためです。新生に関する二つの解釈があります。一つは真実であり、他方は真理をくつがえす美しい嘘です。この後者の解釈によると、霊のいのちは復興の類のものであり、神秘的な力の働きによって引き起こされる内なる活性化です。神秘的な力が魂を取り囲み、春の陽ざしが眠れる種子を目覚めさせるように魂を昏睡から目覚めさせ、既存の眠れる力を活動させるというのです――私たちがすでに持っているものを高い水準、満潮へと引き上げて、その結果、これまで及ぶことなく活性化していなかった領域にも満ちあふれさせ、抑圧されていた力と機能をただちに解放し、内側の意識や外側の奉仕に効力を及ぼすというのです。他方の真実な解釈によると、新生は全く新しい別のいのちを受けることであり、キリストのように神聖な受胎という特別な働きによって上から生まれるために必要なものです――私たちの人間生活の中にそれまで存在していなかった全く新しい独特なものを賦与されることであり、元々私たちの内には備わっていない、独特な奇跡的誕生による、全く別のいのちであり続けます。

どの誤謬にも、その中に真理の要素がいくらか含まれています。それは獲物を捕らえる爪のようです。同じように、先に述べたこの誤謬も、三つのものを区別しそこなっている点に落とし穴があります。その三つのものとは、第一に魂、第二に霊、第三に永遠のいのちです。永遠のいのちは霊を死から起こし、魂を活気づけます。しかし、「全く別物である」永遠のいのちから離れるなら――神によって定められた人の目標に関する限り――魂も霊も神に対して何の役にも立ちません。このいのちは神ご自身であり、キリストの中にあり、聖霊によります。聖霊は「いのちの霊」(ローマ人への手紙八章二節)です。神のいのちは、たとえ信者に与えられてその内に宿る時でも、依然として神のパースンの中に保たれます。「神は私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。このいのちは御子の中にあります」(ヨハネ第一の手紙五章一一節)。信者や教会における神聖なパースンの臨在は、いのちによって表されます。神とは無関係に自分の内にいのちを持つという目的でアダムが行動しないよう、いのちの木は注意深く彼から守られました。そして、彼は追放されました。この象徴は明白です。このいのちは人とはかなり違うものであり――とても神聖なものであり――ただ神にあって、神との霊的合一によってのみ、得ることができるのです。

これらのことはみな、キリストの模範的生活、誘惑、死、復活に関する新約聖書の真理に、また、新生の性質と信者の生活に関する新約聖書の真理に帰着します。

アダムの純真さは消極的なものにすぎなかったことがわかるでしょう。ですから、これは彼の場合の無罪性にもあてはまるかもしれません。ある意味、これは生涯にわたるキリストの試練に光を投じるものかもしれません。とはいえ、これを言うのは留保付きです。今は、説明のために横道にそれることはしません。

聖潔は積極的です。アダムの純真さには聖潔に至る能力が伴っていました。人の場合、聖潔は試みの下での忠実さの結果です。人は純真なまま試みの中に入るかもしれません。しかし、試みのまさに本質は、自分の道と神の道という二つの道のいずれかを選択する能力なのです。

信仰、従順、神への忠実さ、神に頼って悪に抵抗することは、積極的な状態という結果になります。この状態は純真さに優ります。すなわち、特別な方法でまだ罪を犯したことがないという事実に優ります。これを統括する器官は霊です。ですから、その結果は霊的聖潔か霊的邪悪さかのいずれかです。これはそれぞれ、聖霊なる神との関係と、サタンや邪悪な霊どもとの関係を示しています。そこで、アダムの誘惑と失敗の結果について見ることにします。

創造の方程式(創世記二章七節)

人の構成に関する創世記二章七節の記述を取り上げるにあたって、啓示の漸進性について前に述べたことを思い出していただきましょう。なぜならこれはまさに、種子の形で最初述べられたため、後で十分な光を必要とする事柄の例だからです。「この節は積極的証拠である」とは言いませんが、暗示以上のものです。後に聖書はこの暗示を証明します。いずれわかるでしょうが、私たちは創世記一章二六節の人に関する説明を扱っているのではありません。その節は、人がいかなる者かよりも、人に対する神の御旨を描写しています。つまり、人の成り立ちよりも、人の地位と職務を描写しているのです。創世記二章七節:

「そして、神である主は、土地のちりから人を形造り、その鼻にいのちの息*を吹き込まれた。そこで、人は生ける魂となった。」
* ここの単語は複数形です。この意味に関する議論や探求に踏み込んで、かなり詳しく述べることはしません。今はただ、これを指摘するにとどめます。
表面上、この御言葉は私たちが述べていることと全く矛盾するかのように見えますし、人の二部分性の主張を支持しているかのように見えます。

コリント人への第一の手紙一五章四五節にあるパウロのこの節の正確な引用を見ると、それが最初のアダムと最後のアダムの違いを描写するために使われていることがわかります。前者は「生ける魂」とされましたが、後者は「いのちを与える霊」となりました。これは私たちの助けになります。しかし、最初に構成に注意しましょう。ここに三つの点があります。

(1)物質的要素:「土地のちり」
(2)形成要因:「いのちの息」
(3)最終的結果:「人は生ける魂となった」
第一の点について議論する必要はありません。ほとんどの人は人間の物質的面を受け入れるでしょう。「アダム」はアダマ(adamah)からであり、「土から」を意味します。(この語はまた、赤土という色彩的要素も含んでいます。)

第二の点はただちに私たちを現在の主題に導きます。ここには二つの側面、二つの面があります。

(1)「神である主」――生じさせる方
(2)「いのちの息」――彼が用いる手段
創造と注入を混同してはなりません。人の動物的部分については、「被造物と創造者は性質的に同じである」という考えを支持するようなことは何も述べられていません。しかし、神のかたちであり似姿である人のあの部分には、高次の性質があります。この部分は伝達されるのであって、創造されるのではありません。方法が異なります。人の霊は創造の産物ではなく、出産の性質を帯びています。このいのちの息は人の魂ではなく、人の霊です。後で見ますが、これは生ける有機体である人と生命のない物質とを区別する抽象的な生命要素であるだけでなく、神から出ており、機能であると同時に器官、能力でもあります。聖書の一般的教えから、「人の中に息を吹き込んだ方、そして、この吹き込みによって人の中に魂―体のいのち、魂的―肉体的いのちを与えて人を生かし、神の究極的御旨のために神とのつながりを形成された方は、聖霊、いのちの霊だった」と結論できます。

ゼカリヤ書一二章一節に、「人の霊を人の内に造られた主」という句があります。「造る」という句はヘブル語のヤツァル(yatsar)であり、「成型すること」を意味します。神は土地のちりから人の体を形造られました。神はまた、人の霊を人の内に造られました(まず「人」が存在していたにちがいありません)。これとならんで重要なのが、ヘブル人への手紙一二章九節の御言葉「私たちの霊の父」です。私たちが神の子孫であるのは、この点においてです。

プネウマ(pneuma)、霊は、特定の独立した実体としての力を与えられています。次の例を見てください。

「イエスは霊の中で知って」(マルコによる福音書二章八節)
「彼は霊の中で深くうめいて」(マルコによる福音書八章一二節)
「私の霊は喜びました」(ルカによる福音書一章四七節)
「イエスは霊の中で喜んで」(ルカによる福音書一〇章二一節)
「霊の中で父を礼拝する」(ヨハネによる福音書四章二三節)
「彼は霊の中でうめいて」(ヨハネによる福音書一一章三三節)
「霊の中で騒ぎ」(ヨハネによる福音書一三章二一節)
「パウロは霊の中で迫られて」(使徒の働き一八章五節)
「私が私の霊の中で仕えている方」(ローマ人への手紙一章九節)
「霊の新しさの中で仕えています」(ローマ人への手紙七章六節)
「人の中にある人の霊」(コリント人への第一の手紙二章一一節)
「体では離れていても、霊の中ではそこにいて」(コリント人への第一の手紙五章三節)
「それは主イエスの日にその霊が救われるためです」(コリント人への第一の手紙五章五節)
「私の霊は祈りますが、私の理解力は実を結びません」(コリント人への第一の手紙一四章一四節)
「私は霊で祈りましょう」(コリント人への第一の手紙一四章一五節)
「預言者の霊は預言者に服従します」(コリント人への第一の手紙一四章三二節)
「完成された義人たちの霊」(ヘブル人への手紙一二章二三節)
「霊あるいはプネウマは、魂と体のいのちにすぎず、生かす要素にすぎない」と主張する人もいます。原文で「霊」を意味する言葉が「息」や「風」等といった意味で使われることもあることは承知しています。しかし、それは「魂」についても同じです。今の場合そのように使われているのは、目に見えない力や活動を表しているからです。上で述べた「霊」の箇所を「風」や「息」で置き換える人はいないでしょう。そんなことをすれば、すぐに意味が通じなくなっておかしくなってしまいます。

魂と体の関係を私たちは説明することができません。この件に関して聖書ははっきりと多くのことを述べていますが、説明はしていません。たとえば、魂といのちは交換可能な言葉であることがしばしばですが、それは血の中にあると繰り返し述べられています。「いのちは血の中にあるからである。(中略)血がその中のいのちである」(レビ記一七章一一、一四節)。科学はまったくこれを理解する助けになりません。しかし、もちろん、この事実に反駁することはできません。一つのことは確かです――いのちの属性と性質は血の中にありますが、しばらく時がたつと、血はまだあるのになくなってしまうということです。しかし、魂と霊の問題に来ると、全く異なる二つの言葉が使われているだけでなく、聖書によると、一方が滅びなくても分離可能であり、各々自分の責任、能力と運命を賦与されています。

少なくとも推論によって、骨髄が関節より深い所にあるように、霊は魂より内側にあることがわかります(ヘブル人への手紙四章一二節)。体や肉体を通して骨に達することが容易なように、魂を通して霊に達することより、体を通して魂に達することの方が容易です。霊に本当に達してそれを対処するには、魂を刺し通して切り離す働きが相当なされなければなりません。言い換えると、肉体感覚は魂に至る容易な方法ですが、霊に到達するには神の霊の大能の力が必要です。しかし、聖霊の力と大能によって神の御言葉が打ち込まれる時だけ、魂と霊の違いが明らかにされることに注意してください。

「人は生ける魂になった」という三番目の点を扱いましょう。第一にちりからの動物的部分、第二に神の息による霊のいのち、次に魂が述べられています。人は何になったのでしょう?「生ける魂」です。これですべてでしょうか?もしこれですべてなら、体はどうなるのでしょう?この「生ける魂」には体があります。これですべてでしょうか?いいえ!体を持つこの生ける魂には、霊があります。「生ける魂」というこの句は、物質と霊の仲介者として第一の地位にある魂の性質をよく表しています。魂は「(完全に霊である)御使いたちより低」いですが、獣より高いです。前に述べたように、コリント人への第一の手紙一五章四五節の引用が助けになります。この節は二つの点で助けになります。「最初の人、アダムは生ける魂となった」。この後半の言葉は原文では、「egeneto EIS psuchen zosan」です。このeisは興味深いです。それは場所を表し、魂は体と霊という反対の性質を持つ二つのものが出会う場所であることを意味します。パウロの文章の追加の節からはっきりと結論できるように、最初のアダムに関しては魂が体と霊の境界です。この節が助けになる二番目の点は、最後のアダムに関しては霊が境界であり支配的要素である、ということを示す点です。このように、魂は高次の性質と低次の性質を結合するものであり、体と霊を隔てるだけではありません。魂は自己(ego)です。

本書では、「このような魂は悪いものである」、「人が魂を持つのは悪いことであり、それゆえ魂は滅ぼされなければならない」というようなことを言うつもりはありません。私たちが言っているのは、「人の魂は利己的な関心で毒されてしまい、神に敵対する勢力と同盟してしまった」ということです。これは、霊の中で真の覚醒が起きない限り、知る由もありませんし、思いもよらないことです。ですから今、私たちの魂の部分にまったく基づいて生きること、また大部分それに基づいて生きることは間違いです。真に霊的な人々は、最大の敵は自分の魂であることを認めます。また、神にとっても最大の敵は人の魂です。霊が更新されて、キリストが内側に住んで統治される時――言い換えると、私たちが「御霊で満たされる」時――魂は霊の召使いとして主に仕えることができるようになり、霊の統治下で真に役立つものとなります。

ですから、人は目覚めて「生ける魂」になりました。人は三重の意識を持ちました。第一は精神的・物質的体による世界意識、感覚意識であり、第二は魂の中の自己意識であり、第三は神意識です。神意識は何によったのでしょう?人は理性、感覚、意志によって、パースンとしての神、生けるパースンとしての神を知ることができるのでしょうか?神の御言葉はこれを否定していますし、経験的な神との生ける合一に関して、人の歴史もそれを否定しています。「探求によって神を見いだすことができるのか?」(ヨブ記一一章七節)。哲学は「できる」と答えますが、それは信仰にとって最も致命的です。哲学は魂の活発な働きであり、おもに魂の理性の面に基づいています。哲学を科目に選んだため、大勢の人が真実な活気に満ちたクリスチャン経験から逸脱してしまいました。すでに形造られていた人の中に神が息を吹き込まれた時、体と魂以上のものがそこにありました。それこそ、人による神の御旨に関して決定的なものでした。魂は体と霊の出会う場所でした。魂を体に服従させるなら、すべて失われます。魂を霊に服従させるなら、すべて良好です。

要約すると、人は体と霊を持つ生ける魂になりました。人は自分自身――自己(ego)――を霊ではなく肉に付けることにより、罪深い魂になりました。人の中に罪深い魂があるだけでなく、人は罪深い魂そのものなのです。

人は自分自身から救われなければなりません。これは二つの方法で成就されます。代表としての性質を持つキリストの死は強力です。「天然の」人はその中に入らなければなりません。それは、一つの転機と過程を経ることによって、人の魂意識の中にキリストの死が造り込まれて、確立されるためです。自己のいのちに基づいて生活行動することは禁じられていることに、人は気づくようになります。他方、キリストの復活も強大な力であり、人の霊の中にあります。それが聖霊によって人の内なる部分にもたらされることにより、人は天然の人を超えた霊の人とされます。それ以降の人の立場を、使徒パウロは次のように完全に述べています。

「私(天然の人)はキリストと共に十字架につけられました。生きているのはもはや私ではありません。キリストが私の中に生きておられるのです。そして私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、私のために(私の代わりに)ご自身を捨ててくださった神の御子を信じる信仰によって生きます。」(ガラテヤ人への手紙二章二〇節)
これこそ、「だれでも私について来たいと思うなら、自分を否み、日々自分の十字架を負い、私について来なさい」(ルカによる福音書九章二三節)と未発達の真理の形で話した時に、キリストが言わんとされたことです。

前に述べた三番目の問いを取り上げる前に、四番目の問いを取り上げた方が助けになるでしょう。

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